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ねないこだれだ (2)

【 2 】


「マンションには来ない約束でしょう?」
 やわらかな笑みを浮かべてドアチェーンを弄っている遼を睨みつけ、わたしは囁くように問うた。時刻は午後十一時すぎ。大きな声をだすと隣近所に迷惑であるし、なによりも眠っているトウマを起こしたくない。
「どういうつもり? どうやって中に入ったの?」
 オートロック仕様のマンションに侵入する手だてを知らないわけではないが、遼を責めたいとの思いからあえて質問した。
「駐輪場からだよ。柵が低い箇所があってさぁ、越えればすぐに非常階段だろ」
「人に見られたらどうするつもりだったの」
「大丈夫だって。それよりも、突然ごめんな。いけないってわかってるけど、お前やトウマの顔が見たくなってさ。ごめん、ほんとうにごめんね」
 眉尻をさげて、甘えて縋るような声をだす遼を再度睨みつける。この声と表情に何度も騙されてきた。かつてのわたしが同じように目を細めて見つめ返し、同じトーンで返答していたのが腹立たしくて悲しくなる。
「少しだけでいいから。なぁ、開けてくれよ。トウマの顔を見たらすぐに帰るからさ」
 遼の息にはビールと思しきにおいが混じっていた。微かではあるが煙草のにおいもした。おそらく東城線沿いの飲屋街で呑んできたのだろう。もしくは時間帯からしてパチンコの帰りか。
「いったい何時だと思ってるの。帰って。ドアから離れて」
「ひと目見たらすぐに帰るって。な? 頼む。トウマを起こしたりしないからさ。寝顔を見たら帰るって」
「約束したでしょう? 調停の話しあいが終わるまではトウマにあわない。マンションにも来ないって約束したじゃない」
「だから、すぐに帰るっていってるだろ。顔だけ見たらすぐに帰るからさ」わたしは小声で話しているというのに、遼はボリュームをあげている。「なぁ、頼むよ」
「大きな声ださないで」
 トウマに会わせるわけにはいかない。溺愛と暴力を交互に繰り返して、トウマの神経を疲弊させた遼を、絶対に部屋に入れるわけにはいかない。
 ドアチェーンに載せられた遼の指を払って、ドアノブを掴んだ。
 話は終わりだ。
「待てよ。わかったよ」ドアの隙間につま先が差し込まれた。わたしは反射的に一歩退いた。遼は再びドアチェーンに左の指を載せて、いやらしく口の端を歪めた。「トウマにあうのは諦めるからさ。代わりにな、なぁ、ちょっとお願いがあるんだけど」
「……なに?」
 お金か。お金だろう。金の無心に違いない。二週間前に貸した五万円は返してもらってないし、それ以前に貸した分もまだなのに。
「お金をさ、ちょっと貸してほしいんだよ」ほら。
 やっぱりだ。
 噛みあわせた奥歯がキシリと鳴った。苛立ててしまった心を落ち着かせるべく、鼻から静かに息を吐いた。貸したお金は返してもらえないだろう。ただし、遼は間違いなくこの場から去ってくれる。現金を渡せば。これまではそうだった。だけど数日経てばまた姿を現すに違いない。部屋に入れてくれ。トウマにあわせてくれ。そう言ってわたしに縋り、最終的には満面に笑みを浮かべながら去って行く。現金を懐にしまって。
「なぁ、聞いてる?」
 さらに声のボリュームがあがった。煌々とした青白い明かりを反射しているマンションの廊下に遼の声が響いている。顎のつけねから首筋にかけて、ストレスに因る疼きが生じる。じっとしていられなくなる。わたしだってボリュームをあげたい。声を荒げたかった。ここがわたしの住まいでなければ、遠慮なくそうするのに。
「……わかった」
「本当に? ごめんね。助かるよ」
 遼は歯を見せて笑った。出会ったころに魅了されていた微笑みとの違いを見いだせないのが腹立たしかった。内面の醜さに早く気がついていれば、こんなに苦しめられることはなかっただろうに。
「中に入って。でも玄関までよ」
 廊下に反響する声をおそれて、ドアチェーンを外して遼を招き入れた。遼は素直に玄関に留まって、すました顔で壁掛けの鏡と向きあった。はじめからそのつもりだったのだろう。あれほどトウマの名前を連呼していたのに、お金を貸すと言った途端にこれだ。
 わたしはリビングへと移動し、サイドボードに載せていた財布を手に取った。終わらせたい。終わらせなきゃ駄目だ。トウマのためにも遼との関係を終わらせなければ。
 時計をはめた左手首に目を落とした。二週間前につけられた痕は消えているが、あのときに抱いた感情と不快さはわたしの中に残っている。
「え? 五千円しかないの?」差しだしたお札を受け取ろうとせず、遼は眉根を寄せて、低くて威圧的な声をだした。「おいおい、嘘だろ。あんなに稼いでるのに五千円しか持ってないとかさぁ」右手のはらでなにかを転がしている。遼は靴箱のうえに並べていたトウマの玩具を握っていた。サイズは三センチほどで、このところトウマがはまって集めている小さなラバーダックだ。
「触らないで」
「怒るなよ。これって湯船に浮かべて遊ぶ玩具だろ。なんでこんなところに置いてるんだ?」
「トウマが集めてるのよ。大事にしてるの」
「大事なものをこんな場所に置くか。あ、ひょっとして風水学的なやつか? 玄関に黄色いものをおくと金運がよくなるとかさぁ」
「いいから戻しなさいよ。それよりも、ほら」
 五千円札を差しだした。遼は左耳のうしろについている寝癖を指で弄り、眉根を寄せて鼻から息を吐いた。足りないと言いたいのであろうが、いまはこれしか持ちあわせがない。
「五千円ってなぁ」
「あ、明日……」ふと、脳裏をよぎる。「明日なら……明日だったら」凶悪な考えが。
「明日なら、なに?」
 この悪循環を断ち切るべきだ。トウマのため。トウマとわたし、ふたりのため。家族のこれからのためにも、遼との関係を終わらせよう。
「……もう少し用意できなくはないけど」そうだ。そうしよう。そうするしかない。
 だけどどうすればいい? 一日あれば方法を思いつけるだろうか。

 遼を亡きものにする安全で確実な方法を


【 3 】


「忘れものない? 全部鞄に入れた?」
 尋ねると、トウマは手元に目を向けたまま頷いて返した。さっきから間抜けな音色の電子音が何度も鳴っている。トウマの携帯端末だ。おそらく同級生とメッセージのやりとりをしているのだろう。
「朝からスマホばっかり弄(いじ)らないの。本当に大丈夫? 忘れものない? お母さん、仕事に行くからね。戸締まりを忘れないで。窓もちゃんと閉めておくのよ」
 遼との別居が決まってから、トウマの口数は極端に減った。一度きちんと向きあって話をしなきゃいけないと思ってはいるものの、先延ばしにして今日に至る。わかっている。わたしも褒められるような親ではない。
「夕食はトウマの好きなシチューにしようかなぁ。シチューがいいなら、棚のお菓子は食べちゃ駄目だからね。それじゃあね、トウマ。車に気をつけて学校に行くのよ」
 トウマは春から六年生だ。夕食のメニューで気を引けるとは思っていなかったが、トウマは携帯端末から顔をあげて愛くるしい笑みを見せてくれた。
「いってらっしゃい」
「……行ってきます」
 保たなければ。この笑みを――トウマの笑みを。家族の安息を。

 いつも使っているエレベーターには乗らずに、非常階段で一階までおりた。住居は三階なので、さほど労力はかからない。駐輪場で足をとめて、昨夜遼が話していた背の低い柵を探してみた。マンションへの侵入防止柵は、金網のフェンスだが……なるほどたしかに、わたしの身長にも満たない高さの箇所があった。横幅は狭いけれども通り抜けられそうだ。上着のポケットに入れていたウエットティッシュを取りだして、柵の上部を軽く拭いてみた。雨風にさらされているはずなのに、拭いたティッシュはほとんど汚れなかった。ポケットの中へとしまい、来た道を戻る。
 わたしは防犯カメラの設置されたエントランスを通って正面の扉から表にでた。
 風が冷たかった。空は厚い雲で覆われていて、いまにも雨が落ちてきそうだ。傘を持っていただろうか。鞄を開くと、折りたたみ傘が入っていた。安堵してマンション前の通りを西へと進む。途中でコンビニに寄ってATMでひきだした七万円を鞄にしまい、地下鉄の駅を目指した。職場まで三〇分ほどかかる。
 わたしは西門化成の研究開発部に勤めている。

「有村さん、大丈夫ですか」
 ともに核磁気共鳴分光法による解析を行っていた同僚の日高が言うには、今日のわたしは酷く疲れて見えるとのことだった。風邪をひいたのかもしれない――そう答えて、体調が悪いことを周囲にアピールしながら、就業時間どおりに退出した。デスクから離れる前に新素材のオクトパスタスクを鞄の中に忍ばせたことは誰に気づかれていないと思う。容器に入った状態のオクトパスタスクは、適度な粘度のある白濁したスライム状の物質である。華氏四〇度(摂氏四・四度)以下の環境におかれると急激に硬化するので、冬のこの時期は取り扱いに注意が必要だ。硬化対策として、鞄の中に大量の懐炉(かいろ)を入れておいたが、オクトパスタスクの持つ特徴のひとつである密度の高さに講じる対策はないので、帰宅までの道のりは、腕の痺れとの戦いだった。
 夕食の具材が入ったレジ袋をさげてマンションに到着したころには、あたりはすっかり暗くなっていた。


【 4 】


トウマを見ているだけで疲れが癒される。
 ただし、左の眉尻に貼ってある絆創膏のことが少々気になっている。トウマは体育の授業中に友達とぶつかって怪我をしたと言っていが、不格好に貼られた絆創膏は保健室の先生が貼ったようには見えなかったし、午前中は雨が降っていたはずだ。
「誰とぶつかったの?」
 わたしが尋ねると、トウマはひとこと「友達」と答えた。本当は友達と喧嘩して負った傷なのかもしれない。わたしが心配しないよう嘘をついているのではないか――と考えてしまうけれども、邪推で問い質すのは間違っているように思えて気が引けてしまう。こんなとき、わたしの代わりに誰か……
 遼の顔を思い浮かべてしまって、胃の腑あたりがキリリと痛んだ。遼は駄目だ。絶対に。利己主義に走って家族を傷つけた最低の男だ。
 トウマに暴言を吐き、拳を振るうことを躊躇わなかった許し難い男だ。
「ごちそうさま」
 空になったグラスとお皿を手に持ったトウマがキッチンへ向けて歩きだした。わたしはいつの間にか表情をなくしていたことに気づいて、慌てて顔に笑みを貼りつける。
「お風呂、沸かしておくから。宿題が終わったら入るのよ」
 うん、と答えてトウマは背を向けた。トウマ特有の足音がリビング内で反響し、わたしの耳の中でコロコロと転がる。小さくて可愛らしい背中を目で追った。見えなくなるまで。扉の向こう側に消えてしまうまで。
 なぜか急に涙が溢れでそうになった。トウマの手を握り引き寄せて、抱きしめたくてたまらなくなった。頬を両手で包み込んで、音をださずにゆっくりと深呼吸する。わたしが守らなければならない。トウマを。トウマの人生をより良い方向へ導くことができるのは、わたしひとりしかいない。

 お風呂からあがったトウマが、自室に篭ってから一時間ほどが経過した。様子を見に行きたいけれども我慢して、これからすべきことの準備をはじめる。
 学生のころにスノーボーダーの友人から貰った黒のウェアに着替えて自室をでた。キッチンへ移動して、冷蔵庫の横に置いていた鞄を手に取る。職場から持ち帰ったオクトパスタスクを取りだしてテーブルのうえへ載せた。まだ熱を発していた懐炉がふたつ、床のうえへ落ちた。ひとつは上着のポケットの中へしまい、もうひとつは革製の財布と一緒にワークトップへ置いた。壁掛け時計に目を向けると午後九時になろうとしていた。そろそろ約束の時間だ。遼と約束した、待ちあわせの時間である。
 スーパーから持ち帰ったビニールの傘袋の中へ、容器からだしたオクトパスタスクを流し込む。袋の幅が思っていたよりも広かったのでセロテープで数カ所とめてみると理想的な太さの棒状にしあがった。冷たい外気で硬化してしまわぬよう、マフラーで丁寧に包んで首に巻きつける。結構な重量が肩にかかったが、手に持って運ぶよりは楽だろう。
 髪をアップにしてニット帽をかぶり、革の手袋をはめて、茶色のリュックを背負った。リュックの中には、ベランダで使用していたクロックスをミニタオルで包んで入れている。忍び足で玄関へと移動し、買ってから一度も履いていないスニーカーに足を入れて、音をたてぬよう、ゆっくり玄関の扉を開いた。
 雨が、降っていた。


〈つづく〉

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