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善き羊飼いの教会 #5-4 金曜日

〈柊シュリ〉


     *

 ごねたわけではないのだけれど、母が買ってきたチーズケーキはわたしの前に置かれている。並んで座るアカリがもうひとつのケーキにフォークをさしながら母と交わす会話に耳を傾けつつ、湯気のあがるマグカップを口へ近づけた。アカリちゃん、アカリちゃん、と母はいつものようにアカリの名前を連呼しているが、忙しなく手を動かして夕食の準備を進め、美味しい音とにおいでソファに腰掛けるわたしたち姉妹を刺激し続けている。
「食べ終わったらテーブルの上のもの、片づけてね」と母。
 声のトーンからして、わたしにいったのだろう。はい、と答えるつもりが、先にアカリが返事したので慌てて立ちあがった。
「いまじゃなくていいから。座ってゆっくり食べなさいよ」
 鍋を火にかけはじめた母の背中を見つめつつ、腰をおろした。手にもっていたカップをテーブルの上に載せる。フォークを手に取り、本当は母が食べる予定だったチーズケーキにゆっくりつきさす。
「素っ気ないいいかたをしてるけど、車を運転してるときは、ずっとお姉ちゃんの話ばかりなんだからね」
「え。アカリ、いまなんて?」
「あ、そうだ! イチイさん、獄門島の事件を解決して戻ってきたんでしょう? どんな事件だったの? やっぱり連続殺人事件?」
「会ってないから、なにも――」聞いていないし、そもそも獄門島ではないと思う。
「まだ聞いてないんだ? 話を聞いたら教えてね。できれば直接会って聞きたいところだけど……」
 アカリはイチイさんについて話しているとき、とても楽しそうな表情をみせる。少々やっかみに似た気持ちを覚えなくもないのだが、相手がイチイさんでは到底敵うはずもない。イチイさんはアカリを苦しめていたストーカー犯を驚きのはやさで見つけだしたうえに、逮捕の際にも急遽駆けつけて一役買ってくれた人なので、ネコさんを除いた柊家全員がイチイさん信仰者であるといっても過言ではないだろう。
「実際に起こった事件の内容は、やっぱり容易には口にできないのかな」
 アカリの視線がテレビの置かれたローボードに向く。端のほうに文庫本が数冊載っていて、その中の一冊が〈獄門島〉だった。アカリはいま歌を歌う仕事をしているが、小さいころから読書好きで、家の中にこもりがちな子だった。それをわたしが無理矢理外に連れだして、いろいろなところへ連れ回したことを思いだす。
 きっと嫌がっていたんだろうな。そう思う。あのころのわたしは自分中心で身勝手極まりなくて、そのくせみんなから好かれて頼りにされているものだと思いこんで調子にのっていた。そんなわたしに対してアカリは嫌な顔ひとつ見せず、あちこち連れ回すわたしのあとを黙ってついてきてくれていた。慕ってくれていた。いまもそうだ。屈託のない笑顔で語りかける様(さま)はわたしの心の――いや、わたしだけではなく、家族全員の心の支柱になっている。どうしてこんなにまで良い子なのか不思議に思ってしまうくらい。アカリへの感謝の言葉はいくらいってもいい足りないくらいだ。
 もちろん、迷惑をかけて心配ばかりさせてしまっている両親にも。
 わたしが関わった今回の一連の事件のことを尋ねたくて、詳細を聞きたくて、間違いなく両親は落ち着かない気持ちでいるのだろうけど、いまだ正面から訊いてこないのは、きっとわたしのことを思ってくれているからであって、気持ちを考慮してくれているからであるといまはわかっている。ちゃんと理解できている。や、ただ単に、わたしが事情聴取で留守にしてばかりいるから、訊くに訊けないだけかもしれないけど。
 果たしてわたしは家族の想いにこたえられているのだろうかと――いや、問うて考えるまでもない。今回の件。これまでの件。わたしはいつも迷惑をかけてばかりだ。
「あれ。あ。あのケースって、わたしがあげたライブのDVD?」
「え? あ、ごめん、アカリ。まだ観てなくて……」文庫本のそばに置いていた傷だらけのDVDケースは、アカリが指摘したとおり〈フレグランス〉のライブ映像をおさめたDVDのケースだ。「いま観ようと思って、プレイヤーにセットしたところだったの。ごめんね、まだ観てなくて」
「ごめんだなんて。だったら一緒に――」
「なに? アカリちゃんのライブ? この前いってた土曜にやったやつ?」聞き耳をたてていたらしい母が、キッチンペーパーで手を拭きながら早足で近づいてくる。「なに? いま観れるの? 再生できるの?」
「ち、ちょっと、お母さんっ」
 水しぶきが顔に飛んできた。
 アカリが笑う。母も笑いながらわたしに謝る。
「再生してよ、シュリ。リモコンならそこ、ほら、シュリの右斜め前。チャンネルはこのままでいいの?」
 いつもと同じ、それでいていつもとは異なっている我が家のリビングのソファでわたしも微笑む。アカリは声にだして笑う。屈託なく、本当に楽しそうに。どこからか姿を現したネコさんが右足に頭突きしてきてわたしを見あげた。じっと見つめられた。「なに?」なにかしらものいいたそうにゆっくり瞬きしたかと思いきや、ぷいとアカリのほうへ顔を向けて、ネコさんは移動をはじめる。
「どうしたの、シュリ」
「ううん、別に」
「あら。ネコさん。ネコさんも一緒にライブ観たいの?」
 母に抱きあげられていやいや身体を捻っているネコさんを横目で見ながら、手を伸ばしてテーブルの隅のほうに置かれたリモコンを手に取る。
 わたしは顔をそむけて唇を隠した。
 あがった口角を上手くさげられなくて。なんだか、気恥ずかしくて。

 直後にモニターいっぱいに映しだされた森村刑事の笑顔の背景でかっこよく歪んだギターリフが鳴り響く。
〈フレグランス〉ライブの一曲目。
 わたしも、アカリも、大好きな曲だ。

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