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善き羊飼いの教会 #3-4 水曜日

〈柊シュリ〉



     *

 夕方だ。
 夕方になってしまった。
 夕方になってようやく筒鳥署から解放された。
 わたしは、長い――とても長い時間をかけて、オリバー・ウィルソンへ名刺を渡した経緯を、森村刑事からの忠告に基づいて慎重に言葉を選びながら、聴取にあたった刑事さんへ説明した。問いに対する最善で最良の回答を求めて考えに考え、考えて考えまくって受け答えしたせいか、熱い。熱っぽい。
 少々、頭がオーバーヒート気味になっているような気がする。
 聴取を終えた際に担当の刑事さんからは、『お疲れ様でした』と優しくいわれたので、わたしが〈イロドリ〉というサークルとは繋がっておらず、ドラッグの所持や使用とも関わっていないことをきちんと理解してもらえた様子だ。
 第二の障壁は母だった。
 聴取の間、母からの電話が何度もスマホにかかってきていた。叱られるのを覚悟して折り返したところ――最初に聞こえてきたのは怒声ではなく嘆息だった。続けて『森村さんから聞いたけど、森村さんから、森村さんから――』と森村刑事の名前を連呼されたので、わたしの置かれている状況は(非常に好ましいかたちで)森村刑事が説明してくれていたようである。その後、母はイチイさんの名前を連呼して、バイト先に電話しておきなさいと繰り返しいった。わたしの身に降りかかったトラブルは、柊家よりも樫緒科学捜査研究所のほうに大きなダメージがあるとの解釈らしく、『すぐよ。すぐに電話しなさい。イチイさんの番号、知ってるのよね?』としつこいくらい念を押されたので、懸念していた〝柊家の危機〟からは脱せていたようだ。
 ――だから当然、
「ありがとうございました」と頭を下げる。
 お礼は森村刑事に対して。
 森村刑事はいま、車の助手席に座っている。
 ハンドルを握っているのは、アカリの事件のときに、お世話になった女性警察官の長栖さん。
 わたしはふたりのうしろ――後部座席の左側に座っていて、乗車してからもう何度も何度も頭を下げて、感謝の気持ちを口にしている。母へ電話して状況を説明し、不安を取り除いてくれた森村刑事へと、何度も。
「だそうですよ、森村さん」と長栖さん。
 しかしながら森村刑事は誰の言葉にも応えずに、「前を見て運転しろ」と連呼するばかりで、首すら動かさず仏頂面で前を見続けている。どうして答えてくれないのか。こうなったら応じてくれるまで何回でも礼をいい続けようと決めて再度口を開きかけたところで、「今日の聴取で終わりだと思うなよ。あんたの名刺を所持していたのは留学生の男ひとりだけだったが、スマホに名刺の画像を保存してたやつが、ほかにふたりもいたんだからな」刺々しい口調でそういわれた。
 そうだ。そうなのだ。
 なぜかわたしの名刺は写真に撮られて、〈イロドリ〉メンバー間で共有されていたのだ。どうして写真に撮ったのか。名刺の画像データをみんなで共有したのはなぜなのか。その目的は判明していない。
「彼らが画像保存していた理由に、心あたりは本当にないの?」
 長栖さんから問われた。
 ないと答えつつ、再考してみるけれどもやはり思いつかない。ウィルソンさんに名刺を渡したときに、人から名刺をもらうのははじめてだっていわれてすごく喜ばれたので、友人らに自慢したくて見せびらかしたくてそれでわたしの名刺を……なんてはずはないか。
「聴取であんたに対する疑いは晴れたが、問題は多く残ってんだ。それらをひとつひとつ明らかにして、策を講じないことには、同じようなことを繰り返すぞ」と森村刑事。
 繰り返す?
「繰り返すって?」
「いわなくてもわかるだろうが」呆れを含んだ怒声が車内に響き渡る。わたしが首を竦めたタイミングで、ふん、と鼻を鳴らされた。「あんたの家族や、妹の所属する事務所がいつまでも目を瞑り続けてくれると思うなよ。いまはイチイに恩義があるから理解を示してくれているんだろうが、こんなトラブルを繰り返していると、そのうち取り返しのつかない事態に陥るぞ」
「…………はい」
 キリリと胃が痛みはじめる。
 そう。そうだ。たしかにそう。わたしの問題は、わたしひとりの問題ではすまされない。森村刑事のいうとおり、なにかあったときにはわたしよりも、わたしの周辺――アカリや、アカリの所属する事務所の人たちが大きな被害を被るのだ。
「ったく、本当にわかってんのか? イチイに恩義があるのかもしれねえが、あいつの研究所で働いてる間、絶えず家族は足を引っ張られ続けてるってことを自覚しろ。今回の件で、家族がどれほど心配したのか知ってんのか」
「ちょっと、森村さん」
「前を見て運転しろって」
「もうそのくらいでいいでしょう?」
「いいってなにが」
「いいかたがキツすぎますよ。それに、どうして森村さんがそこまでいうんですか」
「あぁア? なんだよ、おれがいっちゃ悪いのかよ」
 横から口を挟んでくれた長栖さんと森村刑事とのいいあいがはじまった。
 手が汗ばんでいる。
 膝に載せて手のひらを擦りつける。
 ふたりに気づかれないように口からゆっくり息を吐きだした。
 長栖さんはわたしを擁護してくれているけれども、森村刑事は正しいことしかいっていない。わたしは周囲に多大なる迷惑をかけていて、柊家の足枷になってしまっている。今回の件で、父と、母と、アカリはどれほど心配しただろう。不安に思ったことだろう。だけど――だけれども、現在のわたしを無に帰すような選択をするわけにはいかない。手を引くわけにはいかない。目をそらすわけには。
 なにしろ人が死んでいるのだ。
 佐倉めぐみさんに関する話は充分といえるほど聞けていないが、わたしの取った行動が事件に深く関係していると容易に想像できる。偶然じゃない。偶然なんかじゃない。わたしと会って大事な話をする直前に殺害されるなんて――強い意志をもった何者かが暗躍して成し遂げた結果に違いないのだ。絶対に。
 胸をおさえる。
 乱れていた呼吸を整える。
 落ち着いて。冷静に。
 佐倉めぐみさんを殺害したのは何者なのか、どうして佐倉めぐみさんを殺害する必要があったのか――考えるほどに怖くて不安で堪らなくなるけれども、ここで事件に背を向けて安全なところまで避難するなんて選択肢はなしだ。
 森村刑事から責められたが、わたしは樫緒科学捜査研究所での仕事を続けていきたい。ようやくここまでこれたのだから。ここまで回復できたのだから。一時は自分を責めて、家族も責めて、アカリのことを誰よりも――
「…………」
 思いだす。
 思いだしてしまった。
 アカリに辛くあたっていたことを。誰よりも辛く、厳しく。アカリがもっとも近くにいたので、容赦なくあたっていたことを。ただ近くにいたからという、それだけの理由で、わたしは、アカリに。
 わたしは臥せていた間に、心ない言葉をアカリへ投げつけ続けていた。
 それでもアカリは、アカリのままだった。
 わたしに対する態度を変えたりしなかった。
 思いやりをもって接し、気遣いを欠かさず、アカリはわたしにとって最良の妹であり続けてくれた。
 落ちていた視線をあげる。
 顎を引いて流れ行く景色を目で追う。

 ――あぁ、
 だめだ。

 アカリに迷惑をかけてはならない。
 困らせるわけにはいかない。
 指を組んで強く握りしめる。手を胸にあてる。胸を強くおす。過去の状態に戻りたくはないが、いまの仕事を続けていればまたアカリに迷惑をかけてしまうかもしれない。だけど辞められない。辞めたくはない。ただし、アカリに迷惑はかけたくない。
「さっきの交差点を曲がったほうがよかったんじゃねえのか?」森村刑事がいった。
「そうかもしれませんね」不貞腐れた声で長栖さんが答えた。
 わたしは姿勢を正して目を閉じ、息を整える。
 車は樫緒科学捜査研究所のほうへ向かって走っている。森村刑事らの目的地は〈イロドリ〉の拠点である筒鳥大学だが、「通り道だから乗っていけ」といってくれたので、言葉に甘えて、いま、こうして送ってもらっている。
 目を開けて窓の外を見ると、見覚えのある通りを走っていた。研究所はもうすぐだ。
 研究所前の通りは狭くて運転し辛いだろうから、大通りで降車するべきだろうか。
 わたしは顎を引き、大きく息を吐きだした。


「本当にここでいいの? コンビニで? 研究所の前まで送るよ?」と長栖さん。
「大丈夫です。すぐ近くですし、それにスルガさんから買いものをたのまれていましたので」
 買いものの話は嘘だ。そもそもスルガさんは他者に買いものを頼まないし、仮になにか買って事務所に戻ったところで、スルガさんは不在に違いない。昼前に届いていたショートメッセージに『金子さんとでかける』とあり、その後連絡が入っていないから。
「買いものがすむまで待っていようか」
「いえ、大丈夫ですから」待ってもらうなんてとんでもない。殺人と薬物中毒死の捜査で筒鳥署は多忙を極めていて、人員不足に陥っていると知っているので、恐れ多くて絶対に無理。「ありがとうございました。送っていただいて助かりました」
 降車し、運転席の横まで移動して深々と頭を下げる。
 長栖さんが手を振ったので再度頭を下げた。
「早く行け。いつでもスマホが使える状態にしておけよ」森村刑事が身を乗りだしながらいったので、手にもった鞄を肩にかけつつ、森村刑事にもまた深く頭を下げた。


 コンビニではペットボトルのお茶と、白猫の写真が印刷されたキャットフードを購入した。表にでると刑事さんたちの乗った車がまだ同じ場所にとまっていた。運転席に向けて頭を下げたものの、誰かと通話中らしくて気づいてもらえなかった。助手席に乗る森村刑事は大きなあくびをしていて、わたしの存在に気づく様子すらなかった。
 車に背を向けて足を動かす。振り向かずに角を曲がる。邪魔な放置自転車を避けつつ歩道を歩く。樫緒科学捜査研究所までは一〇〇メートルほどの距離だ。もう夕刻だが、電話とメールと郵便物のチェックは欠かさないようにと黄山さんからいわれているので、研究所に顔をださないわけにはいかない。
 ほんの少し、歩調を早めた。
 研究所が近づくごとに行き交う人の姿が減った。その一方で、喧騒が増すように感じるのは、二つ先の交差点を大型車両がひっきりなしに通っているから。有料道路の走行料金を節約できる道として噂になって以降、交通量が激増した通りに注意を奪われていると、いつの間にか研究所の建物がもう目の前に。路駐された迷惑な車を横目でちらと見て、早足で建物へ。背後から車のドアが開く音がして、連続して聞こえて、バタンと勢いよく閉められる音が聞こえたと思いきや、
「柊さんでしょお?」
「はい?」
 振り返り、声の主を確認すると、路駐していた車から降りたと思しき三人の若い男性が笑顔を振りまきながら近づいてきていた。
「待ってたんですよ。柊さんですよねえ」
 声をかけてきた男性の右耳に、ピースマークのピアスを確認する。
 ――ハぁイ、ウィルソン。
 記憶が呼び起こされる。訊かなくても、彼らが何者であるかわかる。わたしは一歩退いて周囲に目を配った。通りには、ほかに歩行者の姿はない。わたしと三人の男性以外には。
 いや、三人だけではなかった。路駐された車の運転席に黒のニット帽を被った男性が乗っていた。男性は咥えていた金色のパイプを口から離すと、黄ばんだ歯を見せて笑い、わたしへ吹きかけるようにして車外へ紫煙を吐きだした。
「やだなあ、そんな、警戒しないでくださいよお。とって食おうってわけじゃないんすからさあ」
 瞬く間に男性三人に囲まれて、身動き取れなくなる。
 左側に立つ長髪の男性が洟を啜った。右側の男性はたえず前髪を弄っている。
 ピースマークがさらに距離を縮めてきた。臭い。嫌な臭いがする。鼻腔と喉にまとわりつくような嫌な臭い。
「話が聞きたいだけなんすよ」
「あ、あの」
「東条のこと、探してるんでしょ? おれらも探してるんすよねえ。あはは。やだなあ、だからそんな、警戒しなくていいですから。おいおい、ちょっと待て!」
 腕をつかまれた。
 半歩横に動いただけなのに。
「逃げようなんて考えんなよ。あぁああ、ごめんねえ、強くつかんじゃって。はい、このとおり。放しましたよ。話が聞きたいだけだから。ね、柊さん」
 ピースマークは両手を挙げていやらしく微笑んでみせた。
 右側の男性が声にだして笑う。左側の男性は首をすくめて洟を啜った。
「は、話って?」
「もちろん、東条のことっすよ。教えてほしいんすよ、東条がどこにいるのか」
「居場所だったら、まだつかめて――」
「ないの? マジで? 科学捜査研究所さんなのに? でも、なにかしらの情報はつかんでるんでしょ? だしおしみしないで教えてくれないかなあ」
 息がかかる。
 不快に感じていた臭いはピースマークの息の中にも混じっていた。
 これって? この臭いって、もしかして。
 思い至った臭いの正体と、臭いそのものの不快さで顔をしかめそうになってしまう。
 気分を害させてはいけないと思い、どうにか表情を保って言葉を続ける。
 平静を。
 彼らの前では平静を。
 誰かが通りかかってくれるのを期待して、いまは平静を。
「本当にまだ東条さんの居場所はつかめて――」
「なあんでもいいんだって。どんなことでも。ちょっとしたことでも構わないからさあ。お願いしますよお、柊さん。おれらずぅっと長いこと待ってたんすよ、柊さんの帰りを。なあ。すげぇ待ってたよな、ソウ」
 ソウと呼ばれた右側の男性が前髪から手を離して「ふ」と鼻を鳴らす。
「おい、まだか! 早くしろよ!」
 怒声をあげたのは車に乗った男性で、酒に酔っているかのような呂律の回っていない不快な響きが含まれていた。
「やだやだ、怒られちゃったじゃあん、柊さん。そんな怖い顔しないで早く教えてくれないかなあ。ウィルソンから聞きましたよお。東条の行方を調べてるんでしょ? なにもつかめてないはずないっすよねえ。はは。やだなあ、ほら、そんな、眉間にしわよせないでさあ……あれ? よく見るとあれだね、柊さんって、誰かに似てるよね。誰だっけ。芸能人に似てるって、よくいわれない?」
 嫌だ。
 過去に何度も問われてきた、心底嫌な問いだ。
 続く言葉は容易に想像できる。名前の挙がる芸能人が誰であるかは考えるまでもない。変えなきゃ――話を。話の流れを。
 わずかに顔をそむけて、東条さんに関する話へと戻す。
「本当にまだなにもつかんでないんです。もしもつかんだら――」
「んん?」
「居場所をつかんだらあなたたちにも教えますから。あなたたちって〈イロドリ〉のメンバーですよね」
「あれえぇ。なんで知ってんの? ひょっとして〈イロドリ〉のことまで調べてんの? あ。そっか、そうだよね。東条のこと調べてんだもんね。おれらのことも調べていて当然か。はは。まいったなあ。マジかあ。マジかよ。もしかして、おれらが東条を探してる理由も知ってたりするとか?」
「……え」
「あはははははっ。さすがだなあ、さすが科学捜査研究所さん。まいったなあ。まいったっすよ。そうなんだ? 本当はいろいろつかんじゃってるんだあ、柊さん」
「あ、あの、ちょっと待ってください」探している理由など知りはしない――といいたいところだけれども、これまでの経緯や、目の前の彼らの言動からして、おおよその見当はつく。ついてしまう。
「おぉい、早くしろって!」
 車中から怒声を発している男性が吸っているのは大麻だろう。左に立つ男性がやたらと洟を啜っているのも、薬物中毒者の特徴に思えてならない。嫌だ。もう、無理。一度考えてしまったら、そうであるようにしか見えなくなってきた。
「おい、どこ見てんだよ」
 ピースマークに腕をつかまれた。彼が東条さんについて執拗に尋ねるのも、薬物が関係しているからとしか思えない。もしも、東条さんが〈イロドリ〉内において、薬物の入手を担当していたのだとすれば、ここまでわたしに絡んでくる理由も説明がつく。行方をくらませた東条さんを彼らが探している理由――考えるまでもない。答えは明白だ。
「おい、ソウ、こいつの鞄を開けろ」
「ちょっと、なにするんですかッ」
「調べてるんでしょお、〈イロドリ〉のことも。ちょっと見せてよ、カバンの中身」
「や、やめてくださいッ」
「おい、こいつ押さえとけ」
 強く肩をつかまれる。
 鞄を奪われる。
 冗談じゃない。どうしてわたしがこんな目に!
「ほら、やっぱりもってんじゃん。これって調査報告書ってやつでしょう?」
 勝手に鞄を開けられて、中身を次々とだされて、ピースマークが手でつかみだしたのは佐倉さんと会ったときに見てもらおうと思っていた書類だけど、関係ないといっても開けて見るのだろうし、違うとわかれば次を探すのだろうし、そんなもの存在しないといっても、隠さずにだせと果てしなく要求し続けるに違いない。
「あれ? なに、これ。〈フレグランス〉フリーライブ映像って」
「え?」
「なに、柊さんって〈フレグランス〉のファンなんだ?」
 ――アカリ。
 アカリからもらったDVD。
「あぁ! わかった、あかりんだ。柊さん、あかりんに似てるんだ! でしょ? よくいわれるでしょ? あかりんに似てるってよくいわれるんじゃない?」
「返してくださいッ!」
「フリーライブって、先週末に笠置公園でやってたやつじゃないの?」と右側の男性。
「そうっすよ、東条さんが見に行くっていってたっすから、きっとそうっすよ」左側の男性も余計なことを口にする。
「わお。いいもの見つけちゃった」
「返してください!」駄目だ。絶対に。絶対にピースマークなんかに渡すわけにはいかない。DVDは、アカリがわたしのために焼いてくれたものなのだから。本来は流出させちゃいけない記録映像なのだから。もしも奪われてしまったらアカリだけではなく、もっともっと大勢に、多くの人に迷惑をかけてしまうから、「お願い、返して――返せッ!」
「あぁあア? なんだと、こら!」
 怒鳴られて肩を押されてバランスを崩して倒れそうになって、それでもピースマークに奪われるわけにはいかないから必死に抵抗して、腕を伸ばして、前髪野郎が馬鹿でかい声で愚弄するので、「うるさいッ!」押し退ける。押し退けるつもりが逆に突き飛ばされて頭にきて突き飛ばし返して、「なにやってんだア」車に乗った男性が叫ぶようにいった。「暴れるんじゃねえよ!」耳のすぐそばで別の誰かが叫ぶ。「おいッ、しっかり押さえてろ」ピースマークがいっていやらしく微笑んで、アカリのDVDをまじまじと見つめる。返せ! 腕を離して! うるさい、耳元で洟を啜るな。うるさいうるさいうるさいうるさい! 離せ。離せッ!
「なにやってんだ、お前らッ!」
 ――!
 どこからか野太い男性の怒声がして、みなの目が一斉に声のしたほうへ向き、
「おい、なにやってんだッ!」
 遅れて目を向けたわたしは、体躯のいい男性の姿を捉える。知っている。知った顔がわたしのほうへと向けて駆けてきていた。
「森村刑事ッ!」
 その人物の名を呼ぶと同時にピースマークが表情を歪めて舌打ちし、
「くそッ」苛立たしげに叫んで、わたしを押さえていた男性の膝に蹴りを入れた。「行くぞッ!」
 急に身体が解放されて、蹌踉て、歩道の上に倒れてしまって、
 アカリ――アカリのDVDを!
「待てッ!」森村刑事が叫ぶ。
 ピースマークたちは路駐した車を襲うかのように取り囲んで勢いよくドアを開き、エンジンがかかり、慌ただしく車の中へ。通りに爆音が鳴り響いて、排気ガスの嫌な臭いが撒き散らされる。
「待てといってんだろうがッ!」
 森村刑事の怒鳴り声に、ピースマークらは奇声で返す。開けた窓から身を乗りだして、挑発するように拳を振りあげる。
 つきだされた手のひとつにディスクが。
 アカリのライブDVDをもった白い手が目にとまる。大事なディスクなのに、車外にだした手に握られたDVDは左右に激しく振られて、乱雑に扱われている。
 返せ。
 返して。
 車が走りだす。排気ガスが濃度を増す。嫌な臭いが顔を撫でて鼻腔を刺激する。いまになって通行人が通りに姿を現しはじめた。子供をうしろに乗せて自転車をこいでいる母親が車道の隅に――危ないッ! バランスを崩す。自転車が右に傾ぐ。その横をピースマークらの乗った車が猛スピードでかすめるように走る。わたしは駆ける。ひたすらに駆ける。必死に腿を足を腕を動かしているのに車との距離はどんどん開いていく。よろよろと車道の隅に移動する母と子の横を通りすぎて、タイヤを鳴らす車のあとを全力で追って。待って。お願い。返して、ディスクを。
 森村刑事がわたしを追い抜き、風とともに背中が見る間に遠ざかっていく。動け。わたしの足。もっと早く動け。アスファルトを蹴れ。強く。もっと早く。身体が痛みだす。息が苦しくなる。腹立たしい奇声がエンジンの爆音とともにわたしを嘲笑う。待て。待って。駄目だ。追いつけない。足がとまってしまう。先を行く森村刑事の速度も落ちているのがわかる。通りの遥か先に四人の乗った車が。あんなに小さく。もうあんなところまで。交通量の激増した国道と交差する少し手前――窓からだした手が悠長に振られて、振られたと思いきや、凄まじい轟音とともに視界から消え――
「え?」
「ちくしょうッ!」森村刑事が声を荒げて肩を落とし、振り返ってわたしを見た。
 森村刑事を見返す。目があった直後に森村刑事は再び走りはじめた。
 わたしも足を動かして後を追う。
 身体を揺らしながら追いかける。
 だけれども、もう車は見えない。
 消えた。
 消えてしまった。思いもしなかったかたちで。
 ピースマークらの乗った車は、国道を走る大型トラックに圧し潰されて、交差点の角に建つ建物の陰へと消えてしまった。
「嘘……嘘でしょ?」
 轟音とともに。

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