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Chassol : シャソールのライブを見て思ったこと ― "エルメート・パスコアルのリズム感覚と音楽と非音楽の間"

昨日、モントルージャズフェスティバルでの、シャソールのライブが素晴らしかったんですが、一つ気付いたことがあったのでメモ的に。

CDで聴いてるシャソールのピアノはなんとなくエルメート・パスコアルのピアノに似てるなと思ってたんだけど、生で見てもそう感じたんですよね。

シャソールはスクリーンに映した映像と同期した人間の喋りや動物の鳴き声の音源に、その場で即興的にピアノでハーモニーを付けたり、なぞったりするパフォーマンスをすることでも知られている。以下のオバマ大統領の演説に音を重ねた動画もかなり話題になったとのこと。

この人間の喋りや動物の鳴き声に合わせて演奏するときのシャソールのピアノのリズム感やフレーズの感じがまさにエルメート・パスコアルのピアノのそれに近かったのが個人的にはすごく面白かった。

それで気付いたのはエルメートの演奏の変なリズム感とかって、人間が喋るのや、動物が鳴くのからきているのかなと。譜面に書けないような細かくグチャッと音を詰め込んだり、変に伸びたりするのは、人間が「歌う」のではなく「喋る」のに似ている。つまり、エルメートは人が喋るように音を奏でてるのかなと。

音楽が常識的なタイム感とは違う形に伸びていたり、縮んでいたり、するわけだが、それは音楽における常識の話であって、日常の中では自然に摂取しているタイム感なわけだ。

そう考えるとエルメート・パスコアルの演奏とシャソルの演奏の間にある微妙な違いは「ポルトガル語」と「フランス語」の違いだったりするのかなとか思ったり。

あと、こういうことに気付くと、エルメートが動物の鳴き声をコラージュしたりすることの意味が変わって来るなって思った。エルメートが本当にタイム感を共有できる音は「歌」ではなくもっと自然な(音楽的には不自然な)「声」なんだから入れてるのかもなと。でも、それが限りなく音楽的に聴こえてくるのがエルメートの凄さ。エルメートの音楽は、僕らが何となく「音楽」と「非音楽」みたいに分けてしまっている境界の存在をいつも問い直させるような音楽だとも思う。エルメートが「音楽的なもの」と「非音楽的なもの」を常に入れ替えたり、置き換えたりしているように見える行為はどこまで天然でどこまで狙っているのかはわからないと思っていたけど、実は自覚的なのかもしれないとシャソールを聴いて以来思っている。そして、おそらく彼らが奏でる不思議なハーモニーやメロディーでさえもそういった自然とも繋がる非音楽性を孕んでいて、それゆえに違和感を感じさせるほどに独特で、にもかかわらずなんとなく心地よさもあって、エンジョイ出来てしまうのではないかと。自然が持ってる不自然さゆえの心地よさ、か。

そういうことを考えさせてしまうシャソールの音楽ってすごく批評性があるクリティカルな音楽なんだなと思った。声と演奏というか、音楽と喋り声の違いみたいなものをあそこまで美しく映像的な音楽でわかりやすく示してくれるのって、すごいデザインだなって。しかも、そこにテクノやポストロック以降の感覚もあるから、ストレンジな部分もナチュラルに忍ばせていて、今のリスナーにも自然に届く。なにから何までバランスが良くて、すごく刺激的だった。

例えばそれってロバート・グラスパーやダミオン・リード、クリス・デイブが提示したものをホセ・ジェイムズがフォーマット化し、わかりやすくしたことでディアンジァロやJディラ、クエストラブがやってたことがハッキリと見えてきたように。そして、そんな流れがハイエイタス・カイヨーテみたいな音楽の魅力をクリアに見せてくれるようになったように。シャソールの音楽はエルメート・パスコアルやモノ・フォンタナをより深く理解させてくれるんじゃないかなと思う。


音楽を聴いていると、未来が過去を連れてくることはよくある。「音楽の未来によみがえるもの」って感じ。そして、過去の音楽は常に未来の音楽を暗示している。

そして、音楽のことを最も明快に説明してくれるのは、いつも別の音楽だったりもする。僕にとってシャソールという音楽家はそんな事実に改めて気付かせてくれる存在だった。

ちなみに最近だとベーシストのモノネオンがベースでシャソールやエルメートと同じようなことをやっている。まさか、ベースでやる奴まで出てくるとは…

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