明け方の白い月 (小説/「I LOVE YOU」の訳し方)
明け方の白い月
久しぶりの東京は、懐かしいけれど、どこか見知らぬ街のようで、落ち着かない気持ちで通りを歩いた。それでも顔を上げると、変わらない東京タワーの姿がそこにあった。
ホテルの部屋に戻りカーテンを開けると、ここからも東京タワーが見える。そのそばには、煌々と輝く大きな月。今夜は満月だったんだ。
僕は窓際のテーブルに、グラスを二つ並べる。タワーの上の方が暗くなっているので、気になって調べてみたら、満月の夜は上部を消灯し、下部を季節の色で輝かせるらしい。いろいろな意味で、特別な日だったみたいだ。グラスをそっと掲げる。今日は大切な日だから。
大きな月を見つめていたら、何年も前に彼女と交わした会話を思い出した。あれは、春先のことだった。書類の作成に追われ、金曜の夜に残って、遅くまで仕事を片付けていた。明日は休みたいから、切りのいいところまで終わらせよう、そう思ううちに、いつしか明け方近くなっていた。
オフィスを出ると、空は少しずつ白み始めていた。早く帰ってベッドに潜り込みたいのに、まっすぐ家に向かう気になれなくて、駅前のファストフード店に入った。コーヒーを手に、窓際のカウンター席に座る。店内には、一晩中飲んでいたらしい人たちがいるかと思えば、これから仕事に向かうような人の姿も見える。
少しずつ明るくなっていく外の景色を眺めながら、苦いブレンドコーヒーを啜った。頭の芯はぼんやりと痺れるようで、背中や肩や腰も痛い。それなのに、妙に目が冴えている。
紙コップの中のコーヒーも残り少なくなってきた。そろそろ帰ろうと思って立ち上がり、カップを捨て、自動ドアへ向かう。外へ出ると、風がひやりと冷たい。
コートのポケットの中で、スマートフォンが振動する。通話ボタンをタップすると、少し鼻にかかった声が僕の名を呼ぶ。「いま、何してるの?」
僕は小さく息をついた。「ねえ、時差があるの、わかってるよね。日本は早朝だよ、本当だったら寝てる時間だ」
「でも寝てないから出たんでしょ」と電話の向こうの声は動じない。彼女は妙に勘のいいところがあって、僕が疲れたり、参ったりしていると、不意に電話をかけてくることがあった。
「ねえ、空を見上げて。何が見える?」
僕はスマホを耳に当てたまま、顔を上げた。ビルの間の空に目を向ける。
「こっちは、大きな満月が見えるよ」
彼女の声が耳元で響く。僕の目には、朝の空が映る。きれいな朝焼けが広がり、空の端には白くまるい月が残っていた。彼女が見ているのは、この満月が輝いている夜空で、僕は、この月が明るく輝く姿を見逃してしまった。そして、この美しい朝焼けにも、気づかずに帰るところだった。
「きれいな朝焼けが見えるよ。あかく染まった雲が、まるで絵のようにきれいだ」
彼女はくすくす笑った。
「そうじゃなくて、絵の方が、本物の空を真似してるんでしょ」
僕も笑った。白くまるい月を見ながら。
「こっちの空にも月が見えるよ。もう輝いていないけれど、朝の空にかかる白い月も、なかなかいいものだよ」
自分から電話をかけてきたくせに、ねむくなったと彼女は言う。
「おはよう、そしておやすみ。ちゃんと寝なきゃダメだよ」
あの時、僕は朝の中にいて、君はまだ夜の中で、それでも僕たちの頭上の空は、確かにつながっていた。
いま、目の前には、輝く満月がある。いつの間にか僕は三十を過ぎたけれど、記憶の中の君は、ずっと二十代のままだ。テーブルに置いていたスマートフォンを取り上げ、月と東京タワーの写真を撮った。そういえば、君の好きなピアノ曲は、『月の光』だった。
久しぶりにアプリを立ち上げ、ずっと開くことのなかったチャットを開く。最後に残っていたのは、君が送ってきた桜の花の写真だ。いま撮ったばかりの月の写真を送ってみる。永遠に、既読にならないメッセージ。
あの日、君は桜並木をビデオ通話で中継してきて、自分の顔も映そうと後ろ向きに歩くから、僕は、はらはらして桜どころじゃなかった。あの時は君が日本にいて、僕たちの間には、また時差があった。
アプリを閉じようとして、指が通話ボタンに触れた。呼び出し音が鳴り続ける。誰も取らない電話、どこにも届かない音が響く。
もしもいま、電話がつながったら、僕は何を話すだろう。伝えたいことは山ほどある気がするのに、伝えるべきことが、何も思い浮かばない。
もし、電話がつながったら、こう言おう。
「ねえいま、何が見える?」
窓の向こうに目を向けながら、僕は言う。
「こっちは、大きな満月が見えるよ」
電話の呼び出し音が止まって、君の声が響く。君は少し鼻にかかった声で、僕の名を呼ぶ。
誕生日、おめでとう。君に会えなくなって、三度目の春。君はもう、年をとらない。君の好きな桜が咲いて、大きな満月が輝いている。僕たちの上にある空は、いまはもう、つながっていない。
▼『コピーライターじゃなくても知っておきたい心をつかむ超言葉術』(阿部広太郎著・ダイヤモンド社)
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