あの夏のかえり道 (小説/「I LOVE YOU」の訳し方)
あの夏のかえり道
陽の光が、変わった。白く強い光になって、眩しくなって、キラキラがギラギラになって、夏が来た。
ああ、もう、いいや、飲んじゃえ。バルコニーに出て、冷蔵庫から取り出したビールのボトルを開け口をつける。まだ昼にもなっていないけれど、あの暗い冬から思うと夢みたいに明るい空だ。世界を覆う暗い雲が吹き飛んで、今日みたいな晴れになればいいのに。
僕がいま住む北欧の冬は、暗くて長くて寒いから、夏の訪れは心が浮き立つ。世の中も僕の周りもなんだかスッキリしない毎日だったから、夏の始まりに、ビールを開けたっていいだろう。ちょっと苦くて、冷たい液体が喉をすべってく。
ぱっきりと青い空には、白い雲が浮かんでいる。今まで二十数回、夏を経験してきたけれど、もし帰ることができるなら、絶対にあの夏を選ぶ。あのころは、まだビールなんて飲ませてもらえなくて、甘ったるいものばかり口にしていた。あの時僕はパリにいて、今よりももう少し背が低くて、隣には、甘い匂いをさせた彼女がいた。
夏のパリは日が長くて、遅くまで明るく、僕たちはよく、セーヌ川沿いの道を歩いて、時々ぼんやり川を眺めて過ごした。美術系の大学を目指していた僕は、その夏、勉強とバイトを兼ねて、通っていた絵の教室を手伝っていた。彼女はそこで夏の間だけのワークショップを受講していて、方向が同じだからと、一緒に帰るようになった。
彼女はすこし年上で、ひとのことを子ども扱いして、帰り道に、よくジュースやアイスクリームを買ってくれた。おごられてばかりいるのも悪いと言うと、じゃあ絵を描いて、と言われて、僕は時々、彼女の絵を描くようになった。
夏も終わりに近づいたころ、僕たちは15日ぶりに顔を合わせた。バカンスから帰ってきた彼女は、ちょっと陽灼けして、少しふっくらして、ものすごく機嫌がよかった。ビーチリゾートで着るような白いワンピースを着て、つばの広い帽子をかぶって、サングラスをかけて、まだバカンス気分だった。
左手の薬指には、15日前にはなかった、キラキラしたものがくっついていた。時々手をひらひらさせて、訊いてほしそうにしているので、「それ、どうしたの」なんて絶対に訊くものかと、僕は全力で無視した。彼女もそのうち諦めて、左手のひらひらは止まった。
僕たちはアイスクリームを舐めながら川沿いの道を歩き、足を止めてセーヌ川を眺めた。バトー・ムーシュ、遊覧船がゆっくり川を行く。少し陽が陰ってきて、彼女はサングラスをはずした。僕は横目でそんな彼女の顔を見ながら、残りのアイスを食べた。
「なんか、甘いにおいがする」
川を向いたまま僕が言うと、彼女は首をかしげた。
「今日は香りつけてないんだけど」
「アイスでもついてんじゃない?」
「いやだな、なんか顔についてる?」
彼女がこちらに顔を向けたので、僕は屈んで顔を近づけた。
「目と鼻と口がついてる」
彼女は呆れたような顔をして僕を見た。
「あと、眉毛と睫毛もいちおう」
「ふざけてる?」
彼女はバッグをごそごそ探って、ティッシュを取り出し、口元をゴシゴシ拭った。あーあ、と僕は思う。ほんと、鈍いんだ。弟ができたみたいだとか言って、人の世話を焼こうとするけれど、姉なんて別にいらない。
僕はまた、陽の光できらめく川の水に目を向けた。いま彼女の手をつかまえて、左手の薬指からキラキラしたものを取って、川に向かって 放り投げたらどうなるだろう。怒るだろうなあ。僕が頭の中で三回くらい指輪を投げた時に、彼女が隣で言った。
「何見てるの?」
「川」
彼女がため息をついた時、バッグの中で電話が鳴った。ちょっとごめん、と言って彼女は、鼻にかかった甘ったるい声で電話に出た。少し歩いて離れて行き、こちらに背を向けて、何かしゃべっている。たぶんあの指輪の相手だ。旅行の間中、ずっと一緒にいたんだから、今じゃましなくてもいいじゃないか。
僕は頭の中で、今度は彼女のスマホも取り上げて、川に向けて放った。指輪と交互に、キラキラ光る水に向かって放り投げる。電話を終えた彼女が戻ってきたので、その手からスマホを取り上げ、電源を切り、頭上に掲げた。手を伸ばしても届かないので、彼女は僕を軽く睨んで言った。
「ねえ、思ったんだけど、2週間でちょっと背が伸びたんじゃない?」
「2週間じゃない」と僕は訂正する。「15日だ」
このひとはいつも大ざっぱだ。彼女はため息をついて、「15日で、背が伸びた気がする」と言い直した。
「そっちが縮んだんじゃない?」
「さすがにまだ、縮まないと思う」
僕がスマホを返すと、すぐに電源をいれる。
「メッセージもらった時に、いつまでも既読にならないと心配するから」
「心配性なやつなんだね」
「やさしいひとなの」
彼女はスマホをバッグにしまいながら言った。
雲があかく染まりはじめる。夏の空を飛んでいく二羽の鳥を、僕は目で追う。
「何考えてるの?」
彼女が僕の目線を追う。
「夏が、終わらなきゃいいのに」僕が呟くと、「詩人みたいなこと言って」と彼女は笑った。
川の向こうから風が吹いてきて、彼女の前髪を揺らした。その唇が開きかける。そろそろ帰ろうと言うんだろうな、と思う。まだ、帰りたくない。
「ねえ」と彼女が、こちらに顔を向けた。
「遠回りして、帰ろうか。」
僕も顔を向けた。きれいな瞳がこっちを見ている。
「まだしばらく明るいし、風は気もちいいし、こんなきれいな夏の夕暮れだし」
体を起こして、両手で僕の左手を引く。前にはなかった硬い感触が、手のひらに届く。出会ったころは本当に保護者気取りで、小学生の手を引くみたいに引っぱられて参ったけれど、少しずつそれはなくなっていった。
「そして、もう一回アイス食べよう」
彼女の言葉に、僕は呆れてその顔を見た。
「さっき食べたのに?」
「ピスタチオと迷ったのよね」
「ダブルにすればよかったのに」
たしかに、と呟いているのがおかしくて、僕が笑うと彼女も笑った。
「ダブルにしてもいいよ」と彼女が言う。
「アイスくらい、自分で買える」
「いいのよ、わたしが年上なんだから」
「年上とか関係なくない?」
「関係ないけど、関係あるよ」
彼女は僕の腕を手のひらで軽くはたいた。
「じゃあ、トリプルにしていいかな?」
「いいけど、おなか、冷えるよ。それとも、おなかすいてるの?」
「いろいろ食べたいんだ」
僕は、嘘をつく。もっと一緒にいられるなら、アイスなんて何個だって食べる。
並んで歩いていると、彼女の手の甲と僕の手の甲がぶつかった。その手をつかまえようとしたら、川の方から風が吹いてきて、彼女は手を上げて帽子を押さえた。帽子を取り、手で髪を払う。肩までの髪が風に揺れる。やっぱり甘い香りがする。
「甘いにおいするな」
「旅行中に買ったシャンプーかな。バニラかココナツ」
このひとはいつも大ざっぱだ。ひとの気もしらないで、僕の手を引き、笑いかける。つなぐんじゃなくて、引っ張られるだけの手。髪からふんわり甘い香りがする。
「バニラだね」
「よくわかるのね」感心したように彼女が言う。
安っぽいシャンプーを家に帰ってからも使ってる彼女は、旅行に出る前とは、別のひとになって帰って来たみたいだ。ちょっとだけ、風が冷たくなった気がする。夏の終わりが、近づいていた。
いつまでも明るくて、気もちのいい夏の夕暮れ。あの夏がずっと、続けばよかった。僕はあれからまた背が伸びて、今はこうして空を見ながら、ビールを飲んでいる。
風が吹いて、彼女の髪が腕に触れて、胸がちょっと苦しいけれど、でも彼女はそばにいた。僕の隣で、歩いていた。あのままずっと、遠回りしていたかった。帰りたいけれど、帰れない夏の日。あの夏を超える夏は、まだ、やって来ない。
ご覧いただきありがとうございます。noteのおかげで旅の思い出を懐かしく振り返っています。サポートは旅の本を作ることを目標に、今後の活動費に役立てます。