山口県長門に移住する(144): 聞くより聴く
聞くHearingではなくて、
聴くListening。
私たち日本人は、
小さな頃から、
話すことより、
人の話を丁寧に
聴くことを
厳しく教えられます。
と、
スイスやイギリスで
「考える力を引き出す傾聴」
セミナーをやっていた頃
参加者に言ったものだ。
あちらの人は、
誰かが話していても、
お構いなしに
遮って自分の話を始める。
「人の話は最後までキチンと聴きなさい」
と、小さな頃から
躾けられた私が、
発言するチャンスは
ゼロ。
会話の中に沈黙がないのだ。
なので、
人が集まる場所で、
私は寡黙な人になった。
人の話を
丁寧に聴く
日本の文化が恋しかった。
それが、
いつ頃からか、
日本人も同じように
平気で人の話を遮るようになってきた。
日本に一時帰国して、
従兄弟達と会食した際、
矢継ぎ早に質問が
飛んできた。
「あっちの仕事はどう?」
「暮らしは楽しい?」
「ご飯はどうしてるの?」等々。
一つの質問に答えようと
私が口を開くと、
次の質問が飛んでくる。
運良く、
答え始めると
途中で遮られる。
私の暮らしなど全く知らない
従兄弟が私の代わりに
想像で答え始める。
「最後まで私の話を聴いて!」
と、叫びたかったが、
せっかくの場がしらける。
そのまま、
従兄弟達が話すに任せた。
どういうこと?
従兄弟達は、
私より年上で、
傾聴の躾は身に染みこんで
いるはずなのに。
人の話を遮る、
同じ話を何度も繰り返す、
は、外国人の特徴だと思っていたけど、
日本人もそうなってきた。
それを、
自己表現だと思っている人が
たくさんいる。
誤解も甚だしい。
そもそも
表現すべき自己って何?
それは、
自分自身との
誠実な会話からしか
生まれない。
自分の内からの声を
傾聴すること。
自分自身の声を
丁寧に聴けない人が、
他者の話を聴けるだろうか?
多くの画家や哲学者が
田舎暮らしを
選んだことが納得できる。
聴くにも
内省して考えるにも
勇気と体力が要る。
ヒトという種の
勇気と体力の源泉は、
豊かで美しい自然、
そして、
人の顔が見えて、
ツナガリを感じる
コミュニティーだと思う。
長門には全部ある。
(タイトル写真:仙崎さわやか海岸にてコバルトブルーの海をバックに)
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