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許すことについて、近頃仕事でイラつきがちな私が思う

「愛」というとなんか仰々しい感じがするけど。
高校と大学がキリスト教系だったおかげでそれについて考える機会があって、それ以来10年以上「愛とは何か」という問いに私は「許すこと」という答えをもっています。

有名なお話でいえば、「アメイジンググレイス」だと思いますが
分からない方はぜひ調べてみてください。

高校のときのわたしは今の比でないくらいに奔放でわがまま、我が強い、周囲の状況を考えないような人間だったと思います。
あるとき自分の身勝手な行動によって、授業を1回分潰すくらいのことをして、いやそれ自体はたまにあるような先生の授業だったんだけど、
さすがにわたしの態度やその経緯が個人的なこと過ぎたので、先生から指摘を受け(その言葉や内容はもう覚えていませんが)ハッ、としたことがありました。
 わたしが授業潰すほど取り乱した経緯を書くと記事1本分になるので控えますが・・・
その後職員室に行って、いや職員室には入り浸っていたので行くだけなら日常だったんだけど、改めてその先生に謝りに行きました。
 まあ、今思うと、クラスメイトにも謝れよ、て感じですね…
どうなったかといえば、先生が別室で話す時間をとってくれて、謝りに行ったのに相談にのってもらったわけです。
その出来事を機に、「許し」ということに大きな愛を感じるようになり、これまでにも同様の愛をたくさん受けてきたことに気づきました。

「愛」って何かを与えるとかプラスにするとかいうことでもあるかもしれませんが、
目の前の相手について、良い悪いの価値判断とか「○○だから」というフィルターを通さずに接するとか
相手が背負っている社会的に不利な状況とか、抱いている後悔や罪悪感の意識を含めて受け入れるとか
そういうことなのかもしれません。
わたしとしては、本当に赦せるのは神だったり大きい存在だったりの力なので、「結局、お互い様だしね。」と思えるだけで十分なのかなと思います。

タイトルの通り、なんだか最近イライラしがちなんです。
それがおそらく仕事だけで、他の場面では些細なことや説明のつかないことで苛立つことは(平常時なら)ない…
「納得がいかない」というか、言葉にはできないけどうまく片付けられない感情を抱くことが増えてきたような感じなんですよね。
だいたい過去の経験からして、これが続いたりエスカレートすると退職になっちゃうので、とりあえず今は踏みとどまっているのですが。

たとえば、同僚の仕事のやり方、事業所(会社)全体としてのやり方
違和感を抱いたまま、それが果たして仕事のためなのか自分のためなのかもわからないから、言えずにいる、伝え方もわからない
たとえば、仕事量や配分
やりたい仕事と、自分の力量・キャパシティが見合わずに、かといって他の人がやってくれることに対して認めきれない気持ちがある

きっと自分を許すことができていないんだろうな、と。
元々「こうでなきゃ」という気持ちが強くて、それを他者に押し付けたりするような人だったので、それで行き詰りながら寛容さという着ぐるみを会得してきたような人です。
だから心の中に「許せない」自分が出てくると、それ自体を覆い隠したい気持ちが出てきてしまう。

仕事が嫌なわけじゃなくて、事業所のこともよくしたいと思ってる。
だからこそ入れ込みすぎてしまうのは自分でもわかります。
でも、今の自分を許せないまま「こうでなきゃ」と肩に力が入っている状態では、きっと周りのことも許せない、愛せない。

確かに仕事はボランティアでやってるわけではないし、ある程度のシビアさとか、目的の方向に進むということも大事ですよね。
ただ、「理解する」ことが重要ではないかと思っていて、それが「許す」=「(とりあえず今は)仕方ないよね」「お互い様だよね」につながるのではないかと思います。
なんで今自分はこういう状態なのか?このもやもやはなんなのか?
あの人は、この会社は、私たちは、
どういう得手不得手があって、どんな状況や事情があって、どんなことを考えて日々取り組んでいるのか?
それを理解したほうが、許しやすくて、許せたほうが、働きやすい。
働きやすくないと、この先のことを考えられない、意見が言えない
そういうことかなと思いました。

だからまずは自分が「本当はこうしたい・しなきゃ」と思っているのにできていないことを許していこうと思います。
だってサボっているわけじゃないからね、一応。
そこから、周りのことも許せるようになったらきっと仕事も力量以上に抱えようとすることはないだろうから、すぐには難しいだろうけど諦めずにちょっとずつやっていけたらいいなあ、という所存です。
読んでくれてありがとうございました。

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