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#7 Cloud Library(7章全文掲載)

 平沼は、手にした数冊の本をダンボール箱にしまった。以前は、自分の背丈よりも高いこの本棚いっぱいに、文献が敷き詰められていた。


 平沼は、2年ほど前に、すべてをデータ化することに決めた。文献に囲まれた部屋は権威や威光を示すことはできるかもしれないが、そんなものに興味はない。学生と素早くその一部を共有したり、論文の参考資料として持ち運ぶうえでも、データにしてしまうのが便利なのだ。ダンボールに詰めたものは業者に送り、裁断してデータ化してもらう。これを「自炊」と言うのだと、最近学生から教えてもらった。


 約束の時間はもうすぐだ。平沼は箱を隅に寄せた。改めて部屋を見わたしてみる。文献がなければ、教授の個人研究室なんて殺風景なものだ。いっそのこと、カフェや公園で研究をしてみようか。そんなことは大学側が許してくれるわけがないが。


 「コン、コン」と2回、扉をノックする乾いた音が鳴った。平沼は音の方へ向かい「どうぞ」と言った。「失礼します」と言いながら入室したのは、金丸と中岡の2人だった。


 「ご無沙汰しております。平沼教授。この度は、数々のお願いを聞き入れて下さり、ありがとうございます」金丸は深々と頭を下げた。
 「お久しぶりですね。ご活躍の様子は中岡くんから聞いていますよ。こうしてあなた方に協力することができて、私も喜ばしい限りです」平沼の穏やかな口調は以前にも増して優しさを滲ませた。
 金丸は、ささやかですが、と言いながら、土産の日本酒「悦凱陣」を平沼に手渡した。気を遣わせて申し訳ありません、と言う平沼は嬉しそうだ。大学院生時代、金丸と中岡は何度か平沼と酒の席を共にした。2,3杯のビールのあとは専ら日本酒を飲み続ける姿が印象的だったのだ。


 「随分と研究室がスッキリされましたね。以前伺った時よりもかなり本が減った印象です」中岡が平沼に言った。
 「ええ。すべて裁断してデータに移行しています。データ化したものは大学のクラウド図書館に入れる予定ですから、もうすぐ卒業生用アカウントで閲覧できますよ」
 「そういうことですね。すごく助かります」
 「まだ文献を形として持っておきたい教授は多いですけどね。もっと言うと、文献に囲まれていないと不安になるような人が未だに重要なポストにいるということです。ここだけの話ですけどね」平沼は小声で話し、鼻の前で人差し指を立てた。こうしてささやかな皮肉を織り交ぜながら話すところに、ゼミ生が惹かれていく。だが、決して名指しで悪く言ったりはしない。みんなにとって良いものとは何かを常に考え、緩やかに啓蒙してくれるのだ。


 「所有という概念を破る。文献にしても、サッカーチームにしても同じです。私はそこに共感しました。幸い、わが町田大学にはご存知のように、あなた方の目指すものをサポートできる環境が整っていると思います。この2日間の合宿、そして、あなた方にとっての成功を祈っていますよ」
 「平沼教授、本当にありがとうございます。あと数時間後に選手たちが各地からここに集まってきます。ぜひその時に教授のことをご紹介させて下さい。教授がお話を通してくれなければ、大学の施設を使用することはできませんでした」
 「金丸くん、私はただあなた方とご縁があって、今回はお手伝いさせていただいた身です。ですが、学生時代を通して素晴らしい思い出とたくさんの可能性を示していただきました。なので、今のお言葉だけで十分ですよ。それに、私が学生さんたちの前に出ると、長話をしてしまいます。年寄りの長話を聞く時間を、子どもたちどうしの貴重な交流の時間に当ててあげて下さい」

 金丸は、平沼を見つめたまま何も言わず、再び深く頭を下げた。気づけば隣で中岡も同じように、頭を下げていた。


 金丸は、エレベーターの「閉」のあと、続けざまに「2」のボタンを押した。平沼の研究室がある本館からG館へは、2階で降りて渡り廊下を使う方が便利だ。G館の奥まで進み、階段を下りれば目的の場所はすぐ近くだからだ。


 扉が開き、金丸と中岡は、奥まで延びる長い廊下を進んだ。土曜日の午前中だからか、学生はまばらだ。何人かの学生とすれ違ったが、みんなスマホか音楽に夢中だ。金丸健二の存在に気付く者はいない。授業をしている教室もあるようだが、当時と比べてその数は減っている。リモート授業導入の影響だろうか。


 「懐かしいな。このあたりの教室で学部の授業を聴講してたんだ。インドネシア語の授業をね」中岡が周囲を見ながら呟いた。
 「そういえば出席してたね。なんでインドネシア語?って当時も聞いたと思うけど、なんでだったの?」金丸が少し首をかしげて訊ねた。
 「せっかく大学院に入学して学部の授業も聴講できるし、新しい言語をやりたくてね。金丸がスペイン語を話せるから、最初はスペイン語にしようと思ったんだけど、同じじゃおもしろくないかなって。未来のサッカー界のことを想像して、東南アジアの言語をやることにしたんだ。色々調べたら、インドネシア語が一番とっつきやすそうだった」

 中岡の先見は見事だった。インドネシアは、数年前に始まった大規模なインフラ整備の影響もあり、経済成長が急速に進んだ。今やGDPでは世界トップ10入りを果たす勢いだ。ミレニアル世代が中心となり、3億に近い人口を抱える国をけん引していることも魅力の一つだ。


 「その予想は見事当たってたわけだ。東南アジアに資本と人が集中して、どの国もレベルが上がってきているね。ジュニアユースが去年大阪で国際大会に出たんだけど、ジャカルタのチームがすごく強かったのが印象的だったよ」
 「だんだんとそうなってくるよね。アジアでの競争力が上がってくれば、日本も変化せざるを得ない。良い傾向だよ」
 「確かにね。インドネシア語はまだ続けてるの?」
 「栃木にいる時は、オンラインの授業を受けてたよ。TOKIWAでももうすぐ再開しようと思ってる」


 話が終わる頃には、G館の階段を下りていた。右手には立派な体育館が見える。その手前にある建物が、目的の場所であるJ館合宿施設だ。平沼が学長に話を通し、特例で使用許可が下りた。幸い、長期休業中以外は使用頻度が少なく、60部屋ほどある立派な鉄筋コンクリートの建物は、今日と明日はCyber FCの貸し切りだ。町田大学サッカー部が土日に対外試合があるため、体育館の裏手にある人工芝のサッカー場が使用できることも決まっていた。

 「抜かりのない準備が大事だ」と金丸は笑った。預かったカードキーを脇にあるロックにかざし、合宿所の扉を開いた。金丸は、事前に登録してあるアプリを再度確認し、沓脱で少し大きな声で言った。

 「OK Coocle、電源をオンにして」

 合宿所の扉は開いている。扉には簡易であるが、玄関を入って左に曲がったところに会議室がある旨が、矢印と一緒に示されている。どうやら、場所は間違えてはいないようだ。
 拓真は、慎重に中へと進んだ。沓脱には革靴が2足並べて端に置かれてある。少し距離を話して靴を揃えて置き、用意されていたスリッパに履き替えた。会議室へ向かおうと廊下を曲がった時に、中背の男とぶつかりそうになった。拓真はそれがMETUBEの最後に出てきた人物、監督の中岡だとわかった。

 「こんにちは」
 「こんにちは。拓真くんですね。よろしく。まだ誰も来ていないけど、会議室で待ってて下さいね」

 拓真は驚いた。履歴書の写真は送ってはいるが、もちろん対面するのはこれが初めてだ。既に全員の顔を覚えているとでも言うのだろうか。

 拓真は軽く会釈し、会議室に入室した。


 20席ほど椅子が並んでいるが、中岡の言う通り、まだ誰もいない。拓真は窓側の前から2列目の席に腰を下ろした。学校の授業でも可能な限りこの場所を選ぶようにしている。感覚的ではあるが、話し手の様子と聞き手の反応が客観視できるように思えるからだった。


 開始の15分ほど前には、ポツポツと入出してくる人が増えた。どの人とも目が合って会釈はかわすが、互いに離れた席に座ることを選ぶ。受験の時みたいだな、拓真は心の中で呟いた。

 
 今のところ、会議室には9名の人間が着席している。拓真は、一番前の中央の席に座る男に目がいった。背筋が伸びた姿は凛としていて、腕組みをしながら俯く姿がクールだ。切れ長の目は鋭くて、他を寄せつけない雰囲気すらある。根拠はないが、「サッカーが上手そうだ」と感じた。
 
 あまり注視して目が合っても気まずいだけだな。そう思って姿勢を正そうとした時に、新しい男が入室してきた。大きい。拓真も177cmと高身長な方だが、男の姿は自分よりはるかに大きいように見えた。男は周囲を一瞥し、「こんにちは!」と大きな声を出した。
 
 「みんなちょっと暗ない?せっかく集まったんやから仲よくしよや」
そう言いながら一人ひとりの席を廻り、握手を求めていった。ただでさえ身体の大きい男が、すぐ傍まで寄ってくると、その圧力は物凄いものだ。ましてや、言葉とノリが明らかに関西の人ものだ。勢いがすごい。周囲の遠慮がちな反応とは逆に、拓真は立ち上がり、自ら手を差し出した。

 「よろしく」
 「おお!兄ちゃんノリええな!よろしくな!隣座ってもええか?」
 「もちろん」

 彼の名前は前島ソラトと言った。「空」に「翔」と書くらしい。「かっこええ名前やろ?」と彼は笑った。拓真は自分の名前を告げると、「じゃあ今から兄ちゃんやなくて、拓ちゃんやな」と言われた。

 「教室入った瞬間堅い雰囲気やったからビックリしてんけど、まぁ、最初はしゃーないわな。緊張もしてるやろし。明日までにみんなで仲良くなったらええわ」

 最初は圧倒されたが、いざ近くで話してみると、意外と落ち着いて対話ができる相手に思えた。きっかけは難しいが、始めてみないとわからないものだ。

 「実はな、俺サッカーやったことないねん。みんなめちゃめちゃ上手いんやろ?だから教えてな」
 「そうなの?まったくやったことないの?スポーツも?」
 「正確に言ったら、遊びでフットサルとかだけやってるけどな。ここに来ること決めるまではバスケやっててん」
 「身長高いもんね。教えられることがあるかはわからないけど、できることは協力するよ。なんでサッカーをしようと思ったの?」
 「なんやろ、わからへんけど、今までバスケからサッカーに転向した奴っておらへんやろ?逆はたまに聞くけど。新しいことに挑戦したい思ってん。目立ちたがり屋やからな。でも、ホンマは顧問が嫌で辞めてんけどな。ここだけの話やで」
 「俺と同じだ」拓真は笑った。こんなにも初対面からテンポ良く会話が進んだのはいつ以来だろうか。彼とは馬が合いそうだ。


 拓真のスマートウォッチが振動した。画面は14時ちょうどを示している。空翔との会話に夢中で気がつかなかったが、先ほどよりも着席している人数が増えていた。目で数えると14人だ。遅刻だろうか。各地方から集まるから仕方ないか、拓真がそう思った時に、扉からスーツ姿の男性が入室してきた。

 最初に入ってきたのは金丸健二だ。ネット放送ではもちろんのこと、代表戦やJPリーグの観戦で何度も観たことがある。METUBEの動画が送られてきた時にも思ったが、有名選手と同じ空間を共有することに、少し不思議な気持ちになった。周囲の人々の反応も同じようなものだ。口を開けたまま、金丸が歩く姿を目で追っている。金丸のすぐ後ろには中岡が続いた。METUBEで紹介されたスタッフはここまでだ。


 しかし、入室してくる人の流れは途切れない。金丸と中岡とは少し間隔を空けて入室してきた別の2人からは、ただならぬ気配を感じた。

 浅めに帽子をかぶった青年は、どことなく、日本人ではないように見えた。黒髪だが彫が深く、瞳が大きい。左手にはアルファベットで書かれたタトゥーが刻まれている。
 男は遠慮気味に周囲に手を振りながら中岡の傍に立った。問題はもう1人の男だ。身長は自分と同じぐらいあるだろうか。拓真は男の胴回りの肉づき、胸板の厚さに目がいった。深々とかぶった黒い帽子にサングラス姿では素顔が確認できない。

 胸板の厚い男は金丸と中岡に挟まれるように立ち、白い歯をのぞかせた。


# 8  Virtual Reality(8章全文掲載)https://note.com/eleven_g_2020/n/nde15c8c80e3e



【著者プロフィール】

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映画監督を志す小説家。日本が初出場を果たした1998年のフランスワールドカップをきっかけにサッカー強豪国の仲間入りを果たすためのアイデアを考え続けている。サッカーとテクノロジーが融合した物語、 11G【イレブンジー】は著者の処女作である。

Twiiter: https://twitter.com/eleven_g_11

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