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177 今の働きにくさ、息苦しさを生んでいるのは『「ほどほど」のコンセンサス』を失っているから?

「職員室での対話はなぜ難しいのか」についての対話会に参加した。

「職員室で対話を難しいと感じているか」
「それはどんな時でしたか」
「どういう要素があると対話はできるようになる/対話が難しくなる」
この3つがトークテーマでした。

とよてつさんが
・放っておいても「つながり」がもてる先生と意図的な仕掛けがないと「つながり」がもてない先生は当然いる。それを放っておいてもうまくいかないままなのは、子どもへの対応と同じですよね。
・自分の意見がいつも少数派なだけ。
と言っていたことが、僕には印象的でした。

森﨑さんと豊田さんのお話を聞いた後、ブレイクアウトルームで少人数で話をしましたが。僕のグループは、みなさん同僚に恵まれていうまくいっていると言っていました。
僕はこんな話をしました。
・「こういう教育目標に向かっていこう!!」と合意できるものは、学力向上以外存在しない。学力向上だけが唯一全員が一枚岩になれるもので、それ以外ではどうしても総意になれない難しさが学校にはある。教師をしていて一番難しいことの一つは、職場の仲間のコンセンサスを得ることではないか?
・仲が悪いわけではないけれど「本音が話せない」ことはある。
・周囲の先生方はみんなできる人に見えていて、自分は何もできていないとネガティブな気持ちになっている人は「しんどい」「辛い」「疲れた」「腹立った」などと職員室で吐露することができない。私なんかがそんなこと言っちゃいけないと思っているのではないか。「日々貢献できていない自分なんかが気軽に年休なんてとっちゃいけない」と自己検閲になっていることはある。
・牧歌的なふつうの学校で『学び合い』のような授業をしている僕に、冷たいメッセージを送られたことがある。実践を否定されることはどうでもいい。でも、なぜそれを取り組みたいと考えているのか、勤務校の子どもの課題について共有できない、共有しようとすらしてくれないのは、めちゃくちゃ虚しい。

職場が違えば、課題も違うのは当たり前だから、あまり共感はしてもらえなかたかな。
人はそもそも感情を横に置いて対話するのはとても難しい生き物で、自分の編んでいる物語の枠組み外して考えることもとても難しい生き物。そして、先生だとしてもそれは難しいことってことなんだろうな。

今、noteを書きながら思い出したのは、落合陽一さんとオードリー・タンさんとの対談(『ズームバック×オチアイ 過去を「巨視」して未来を考える』)です。

対談の中で、生きた民主主義を「進化」させるカギは多様性にあり、どうやってそれを確保していけばよいのかについて言及していました。これがとても有趣。落合さんは「大事なのは「ほどほど」ではないか」と述べていました。
校内研修が「ほどほど」のコンセンサスで成り立つようになれば、もっと僕らは働き方や生き方が多様になり、いじめられなくなる。w 学校はどんどん『「ほどほど」のコンセンサス』を失っていき、今の働きにくさ、息苦しさを生んでいるのではないだろうか。

「ほどほど」とはどういうことか『ズームバック×オチアイ 過去を「巨視」して未来を考える』より
(引用開始)
多様な文化圏を持つ国では比較的この「ほどほど」に価値が置かれていて、お互いに理解し得ない文化の違いに関して「ここまでは理解しよう」というほどほどのラインを持っています。でも、いまの日本のように、あるひとつの文化圏が大多数を占めている場所では、「違う文化を完璧に理解しよう」「お互いに理解するまでやりきろう」ということに時間と労力を割いてしまう。8割でいいのに、残りの2割を達成するのに多くの時間を使ってしまうのです。そうなると社会のなかで、たとえば皆が同じ規律を求めるので、そこに収まらない子どもがいじめられる。ほどほどに勉強ができるのでよければ、違う教科書を持っている子が同じものにそろえる必要はないですし、同じ教科書を使わなくても、たいして変わらないかもしれません。
(引用終了)

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