見出し画像

高齢者雇用の打開策

結論:農業と神事・仏事への特化

 文字通りです。
 足腰も立たなくなってしまうほど老いる前、遅くとも70歳になる前までには農業に従事・習熟し、氏神さまや檀家のお寺への奉仕を専業として行うこと。

人間は老い衰えるもの

 人の悪しきに目をかけて自分の悪しきは棚に上げ
 これはわたしの恩人の遺した歌の一節です。
 人間が老い衰えることを理屈では分かっていてもそれは他人の話であって、自分だけは老いても病気や認知とはならず足腰も立たぬようになり糞尿を垂れ流す身にはならないと自分を棚上げするものです。

慢心と取り違い

 コロナの世となってようやくエッセンシャルワーカーという概念に改めて気づかされることとなりました。
 看護師さん、現場最前線のお医者さん、介護職の方たち、などがその代表的なものとして今一度深く認められたものと思います。

 そして農業

 食、という人間が生存するための根幹となる仕事と思います。
 本当は漁業もこの文章で謳いたかったのですが、陸の上ではなく海の上という、体力と若い内からの習熟を必要とする専門的な仕事であり、老人が年を重ねてからいきなり携わることが困難な職種

であることから敢えて本文では農業だけを取り上げさせていただきました。

 慢心、と言うのは手足を動かし額に汗して働く仕事よりも『知的労働』と呼ばれる仕事によって『付加価値』という曖昧なものを増加させる仕事に偏重して来たそのココロのことです。
 取り違い、と言うのはその知的労働こそが他の動物よりも知や学が発達した人間のなすべき仕事であると勘違いしているということです。

 つまり自分たちは頭がよくて知的労働をして付加価値を生み出す偉い人間なのだという慢心と取り違いです。

逆さまの世の中

 わたし自身まだまだ慢心と取り違いをしていてこの文章を適切に書けているのかどうか内省と熟考が必要ですけれどもそれでも大筋の流れは正しく受け止めていると考えます。

 逆さまというのは知的労働や知的活動を上に持ち上げ、五体五感第六感を捧げるように使って仕事するひとたちを下に落とすような、そういう世の中のことだろうと思います。

仕事は嘉事

 恩人は年老いて病の床に臥すまで畑仕事をし、嫁としての家事や舅・姑に仕えることや所有していた長屋に心の病のひとを住まわせて介護するなど、まさしく今でいうエッセンシャル・ワーカーのように五体五感第六感を駆使して仕事に生きたひとでした。

「仕事は行<<ぎょう>>ぞいね」

とよく言っていたそうです。

 年老いてなお、いいえ年老いるからこそほんとうにひとのためになり一日の勤めを終えて、カラリ、としたココロで毎日を生きることができるのならばそれこそが嘉い仕事であり仕事を喜ぶことになるのではないかと思います。

そして神事・仏事を司る

 神様のことは神主さまに、仏様のことは御坊さまにということではいけません。

 わたしたち自身が神様を祭り仏様を祭るのでないと。

 空にあるお日さまとお月さまから恩恵を受けぬ人間はひとりとして居ないのですから、つまりは神仏から恩恵を受けぬ人間もひとりも居ないのですから恩義あるわたしたち自らが祭らねばならないんです。

 ただ、若い内はまだ人間も練れていませんし俗世の諸々で神仏に真っ直ぐに向かえないことが多いです。

 その点、老人は練れて老成し、ある程度のゆとりを持って神仏に向き合うことができてうってつけの存在です。

 更に言うと、神仏に向かうその姿があるからこそかつての老人は威厳も備わり尊敬も受けたのではないかと思います。むしろ神仏に心から奉仕する仕事は老人にしかできぬと言ってもよいかもしれません。

最後に

 わたしはこれらのことをホンキで書いています。ホンキで農業と神事・仏事は老人が最も国のため世界のために尽くすことのできる天職であると考えています。
 そしてわたしはこれらのことを我を張らずに素直に神様のお示しのままにお伝えできていることを願います。
















この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?