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3-2-b.) 「自分」を見つける瞬間

 自身の演出意図についてエーラトがインタビューで特に強調した点に「瞬間的な共感」というものがあった。


 これは「自身の演出に関して観客へ何らかのメッセージがあるか」という質問に対して現れた表現であり、以下が彼の回答である。

私にとってまず重要なのは、心理状態を照らす(diese Seelenzustände auszuleuchten)ということだった。
(中略)
私のメッセージとして一番好ましいのは、私が瞬間的に自分を登場人物の誰かと同一視できたとき(wenn ich momentweise mich mit irgendwelchen Charakteren identifizieren kann)、私も「そうだ」と気づくとき、それが快いか不快であるかはともかく、それが私の最も好きな瞬間だということだ。
私が思うに、誰かを排除したいという考えは私たちの誰もが持っているものである。なぜなら私たちは皆潜在的攻撃性(Aggressionpotenzial)を持っているからであり、問題はこれが文化や文明によって良い方向に持っていけるかどうか(in gute Kanale schicken)ということなのだ。しかしこれは時々はうまくいかず、暴力が発生する。そしてこの潜在性はどのように表現されるにせよ、たとえエレクトラほどではなくても誰もがどこかに持っている。しかしこのエレクトラの状態は、もちろん私は彼女の通りに体験したことはないが、しかし瞬間的に彼女は私たちにとても近いところまでやってくるのだ。
(中略)
それからこれが私にとって最も重要なメッセージだと思う。それは私たちが「自分」を認識できる瞬間を見つける(Momente zu finden, wo wir uns erkennen können)ということだ。 _1


 「自分」を認識できる瞬間を得られる登場人物は主人公エレクトラだけではない。

 エーラトの演出で試みられた「境界を解体する」という作業によって、三人の女性の境界が曖昧になった。

 このことはさらに、観客である私たちの誰もがクリュソテミス、そしてクリュテムネストラにもなり得るということを示唆している。
 子供を産んで母親になりたいと切望するクリュソテミス、毎夜続く悪夢と必死に戦い続けるクリュテムネストラ、彼女たちはその人格全体が観客に共感されるのではない。観客は彼女たちのその場その場での感情、台詞、および行動などに瞬間的かつ部分的に共感するのだ。

 観客に対し、主人公エレクトラだけに1から10まで共感させないということは観客が「何も考えずに」作品を観ることを避けるということでもある。それはブレヒトの「叙事的演劇」の概念につながる考えであると言えるだろう。


 このことに関連して、ここで観客の受容という観点にも注目しておきたい。

 作品の持つ意味は、作品そのものが発しているのではなく、受容者(観客)が体験し、知覚し、個人の人生史、経験、主観、知識などと絡み合い、そのプロセスを経てそれぞれの受容者の中で生成されるものであるとエリカ・フィッシャー=リヒテは主張する。

 作品理解のプロセスは、受容者の「個々に特有の歴史的かつ個人史に限定された経験の結果」(Resultat seiner je spezifischen geschichtlich und lebensgeschichtlich bedingten Erfahrungen.)として始まる。
 そこでは「先入見」(Vorurteil)、つまり「個々の特性、嗜好経験の総体」(Eigenheiten, Vorliebe, Summe von Erfahrungen) が前提となる。

 個々の受容者の「先入見」は上演体験によって変化し、変化した「先入見」が作品を変化させる。
 したがって、上演を理解するということは、「主観的で個人的なもの以外ではありえない」(kann nicht anders als subjektiv, als individuell sein) というのが彼女の考えだ。

 これはそのまま作品中の登場人物理解にも当てはまることであろう。
 登場人物中の誰にどの程度共感するかは観客一人一人によって異なるものであり、その基準も観客の数だけ存在する。
 受容者である自己と登場人物が別の主体である以上、舞台上に起こることに対して完全な当事者になること、登場人物たちと完全に同化することは不可能である。その意味ではそもそも受容者の共感は瞬間的、部分的なものでしかありえないのであり、観客にとって登場人物たちは無意識のうちにはじめから解体されている存在なのである。

 つまり、ここで「レジーテアター」と「原作への忠実さ」という二元論に立ち戻るとき、仮に演出がどれだけテクストに「完全に」忠実になろうとしても、観客という存在が必ず介入するのであるから、その試みははじめから挫折しているようなものなのだ。
 そもそも舞台作品は演者と観客の両方が存在してはじめて成り立つものである以上、上演によって完全な「原作への忠実さ(Werktreue)」に到達するのは不可能なのである。

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1. Interview., p.2.

Erika Fischer-Lichte: Hermeneutik des theatralen Textes, in: Semiotik des Theaters, Bd. 3, Tübingen(Gunter Narr Verlag) 1983, 21988

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