2-1-b.) 変形するタナトス
次に、『エレクトラ』におけるタナトス(死の欲動)の要素を考えてみたい。
フロイトはこの死の欲動について、「自我とエス」では
外界ならびに他の生物を標的とする破壊欲動として姿を現わす _1
と述べている。
では、ここではエレクトラとクリュテムネストラの親子関係を例に取り上げてみたい。
作品から明らかなように、彼女たちは互いに激しく憎み合っている。エレクトラは父を殺した母を憎み、クリュテムネストラはそんな娘を屋敷に閉じ込め、精神的にも物質的にも惨めな生活を強いている。
さて、彼女ら二人が互いに対して抱いているこの「憎しみ」という感情について、フロイトは彼の言うところの「破壊欲動」の代表であると述べ 、またエロースとタナトスの対立を表すものとして愛と憎しみの対極性を挙げ、さらにこの二極は互いに密接に作用しあっていることを指摘する。
憎しみは、意外なほど規則的に愛に同行している(両価性(アンビヴァレンツ))だけでなく、さまざまな人間関係において往々にして愛の先駆けともなっているし、そればかりか、さまざまな事情に応じて、憎しみは愛に、愛は憎しみに変身したりもする。 _2
また、このことに関しては演出家自身もエレクトラとクリュテムネストラの関係、および「愛(Liebe)」について以下のように述べている。
実際のところ、エレクトラとクリュテムネストラにとって何が大きな問題かと言えば、互いに非常に似ているからだ。憎しみの対極は愛ではなく無関心だ。しかしこの愛は完全に歪んだ形をしている。
(中略)
彼女たちは互いのことをよく知っているからこそ、対立しあうことしかできない。彼女たちは互いの中に自分自身を見てしまう。ゆえに互いのことが耐えられないのだ。 _3
つまり、演出家自身の見解からも憎むということは愛の表現の一つであるということがわかる。彼女たち二人の振る舞いは本作品におけるタナトスの要素を映し出していると言えるのではないだろうか。
また、これに関してもう一点注目しておきたいのは、『エレクトラ』のオペラ化に際し、シュトラウスの依頼[注1]を受けたホフマンスタールがクライマックスでの姉妹の二重唱として、エレクトラに
「ああ、愛は人を殺す。だが誰も、愛を知らずして死す者はない(Ai! Liebe tötet! Aber keiner fährt dahin und hat die Liebe nicht gekannt!)」 _4
という台詞を書き加えているという点だ。この部分は非常に示唆的である。この台詞における「愛」とは「死んだ父への愛というよりむしろ自己の夢にたいする愛」 であると畠中は述べているが、いずれにせよホフマンスタールもまた、とりわけ主人公エレクトラに関しては愛と死―それらがどんな形であれ―が深く結びついた人物であると考えていたと言えるのではないだろうか。
以上、フロイト理論におけるエロースとタナトスという二種類の欲動という視点から『エレクトラ』との関連性を簡単に考察した。
これに関して畠中は『エレクトラ』はフロイトの理論を直接あてはめた作品ではなく、「同時代のウィーンの精神風土から生まれた科学者の仮説と詩人の直観が並行して作品化された」 と述べている。しかし、たとえ直接あてはめた作品ではなくても、詩人の直観の土台の一部はまぎれもなくこの精神分析理論にあったと考えられるだろう。
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[注1]ヴィリー・シュー編、前掲書、p.32。このときシュトラウスはホフマンスタールにオペラのクライマックスをさらに盛り上げるため追加の詩句を依頼している。
1. ジークムント・フロイト「自我とエス」、前掲書、p.39。
2. 同書、p.40。
3. Urashima, Chihiro, Interview mit Johannes Erath, 13.9.2013.,Oper Graz, tonaufnahme/Abschrift(Manuskript),p.7. このインタビューに関しては音声記録ならびに文書記録を作成しており、以降このインタビュー記録からの引用にはページ番号を表記する。なお、彼へのインタビューの詳細は第3章にて詳しく述べる。
4. ヴィリー・シュー編、前掲書、p.37。
畠中美菜子「20世紀のエレクトラ ―ホフマンスタール劇に見る―」(東北大学『東北大学教養部紀要』、第59巻、1992年)