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永遠のレッスン 潮田登久子 写真展

人の気配と写真を撮る行為

写真家:潮田登久子さんの個展がスタート


https://artazamino.jp/event/azamino-photo-2023

あざみ野フォトアニュアル2023の展示イベント。
会場は横浜市民ギャラリーあざみ野。
現代的なスッキリした新しめの建物。
企画展示会は一階の展示室1で開催中(1月28日にスタートしたばかり)

あざみ野フォトアニュアルでは『現代の写真表現を紹介する』というコンセプトで幅広く、主に若手の写真表現の紹介などをしている。フォトアニュアルの過去の開催歴などはここでは省略します。


会場の告知

潮田登久子さんのこれまで

静物を中心に端正なモノクロ写真を撮影する写真家、潮田登久子(うしおだ・とくこ/1940年東京都生まれ)の個展を開催します。
潮田は、1960年に桑沢デザイン研究所に入学し、写真家の石元泰博(1921-2012)、大辻清司(1923-2001)の指導を受け、1975年にフリーランスの写真家として活動を始めます。
https://artazamino.jp/event/azamino-photo-2023
『冷蔵庫/ICE BOX』(1996)を出版。1995年より、本と本の置かれている環境を主題とした「本の景色/BIBLIOTHECAシリーズ」の撮影に取り組み、『みすず書房旧社屋』(2016)、『先生のアトリエ』(2017)、『本の景色』(2017)の三部作として発表
https://artazamino.jp/event/azamino-photo-2023
2018年に、第37回土門拳賞、日本写真協会賞作家賞、第34回写真の町東川賞国内作家賞を受賞。2019年5月に桑沢特別賞を受賞
https://artazamino.jp/event/azamino-photo-2023

潮田登久子、といえば『冷蔵庫』



会場風景(スチル撮影は可能)大判で焼いたスクエアのプリント。画面内の冷蔵庫の大きさは様々。設置している環境や時折り映る人の姿に相違を感じる。
モノクロームプリントは隅々までピントが合っていて少し硬質さがある。スクエアフォーマットの写真自体が工業製品のよう。額装なしで直接、展示会場の壁に銀色のピンで留めている。
この銀色のピン(画鋲?)も小さくて機能的。
撮影の時の様子を説明する島尾氏。

自宅の冷蔵庫の撮影から始まり、知り合いをたどって大体の家庭にある冷蔵庫を撮らせてもらったシリーズ。
冷蔵庫を開けると目につくのは雑然とビニール袋に入れた状態で詰め込まれたもの、飲料水や調味料。素材や食べかけの食品。使っていると発生する汚れなど混然一体となってすごい情報量がある。一枚ごと、違う家の冷蔵庫を同じ距離感で撮影していて、詳しい人ならベッヒャー夫妻による給水塔のシリーズを思い起こすかもしれない。

それぞれ定められたアプローチで、片方は工業製品、片方は施設という被写体になりづらいものを「即物的」に撮影したという着眼点の類似性。

給水塔は外側を定点観測的に記録している冷徹さがあったのと比べて冷蔵庫を撮るという行為や発想はとても写真っぽく感じられる。まず冷蔵庫を撮らせてもらう交渉から始める必要があり、生活をしているところに入って周辺も撮っているだろう。食べ物があって、素材の状態や調理した残りのようなものもそれを食べる人の存在を想像させて、とても不思議な気持ちになった。

自分の家に突然やってきた大きな冷蔵庫、そこから撮影は始まり各家庭の冷蔵庫を写すようになったという。冷蔵庫を正面から捉えた構図の面白さ、冷蔵庫のある風景、冷蔵庫の中身、あってあたりまえのもの
https://www.pgi.ac/cart/product/p-2052.html

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人の気配と写真を撮ること


撮影に使用された三脚など。

潮田さんの表現、現在の若手の写真家による表現とコマーシャルフォトグラファーによる表現。あるいは、ネットで散見するアマチュアのフォトグラファーによる感覚的な表現や視点とは当然ながら根本的に異なるもので、誰でもファジーに撮って出しをしている現在(2000年以降は特に)においても一般的に見ても独特のアプローチかと思う。なお、作品集が刊行された90年代当時も写真界隈では話題になった。


写真史を触ったら、写真機の始まりとともにフォト・ジャーナリズムの隆盛と視覚表現の大衆化について知ることが出来る。デザインや写真専攻で写真術を人文学的に考えたり語る授業で少しは知っている人もいるだろう。

これは想像だが、即物的に即戦力的な撮影技術を求められている職業カメラマン(商業写真家)では知識として触れるとしても、テクニックに時間を使い人文学的アプローチについてはほぼ触らない(めんどうくさくてスルー)ではないのかと思う。

そこから、コマーシャルフォトグラファーが形だけ写真ぽいものを求めても埋まらない見えないラインが生まれ、綺麗だけど作品としてのインパクトには決定的に欠けているのではないかと考えている。

被写体との会話、内面的な掘り起こしの濃密さで表現に差が出来ていると感じている。撮る側の教養や価値観の話なので、どちらが優れているという話ではない。

写真好きという感じの30代~50、60代前後くらいまで。会場で熱心に見ていたのは男性が多め。

写真家にとっての「ミラーズ・アンド・ウィンドウズ」

60年代アメリカ。ニューヨーク近代美術館の写真部門にキュレーターとして在任。長じて名誉ディレクターにまでなったジョン・シャーカフスキーは写真家としてのキャリアを持つ。彼は「ミラーズ・アンド・ウィンドウズ – 1960年以降のアメリカ写真」という展覧会をディレクションした。

展覧会ではアメリカ写真としながら、複数の表現ジャンルを超えて活動するアーティストが数多く登場し活気があった背景からかむしろ写真表現を超えるような横断的な「美術」全体を見通すような展示内容と、一定の評価が高い。

シャーカフスキーが触れている「鏡と窓」については以下。

「鏡派」は写真を自己表現の手段として用いる写真家のことで、「窓派」は写真を通して外界を探究する写真家のことを指す。しかし、シャーコフスキー自身が述べているように、この二つは不連続な関係にあるのではない。どの写真のなかにも二つの側面が存在しているのであり、1枚の写真を鏡派か窓派かのどちらかにのみ分類することは不可能である。
https://artscape.jp/artword/index.php/%E3%80%8C%E9%8F%A1%E3%81%A8%E7%AA%93%E3%80%8D%E5%B1%95

展示では初期の作品から、『冷蔵庫』、本にまつわる三部作、家族を撮影したシリーズ『マイハズバンド』が俯瞰的に見ることが出来たが、一枚の中でも外側にも内(内面)にも行っているのが伝わってくるようだった。潮田さんでしか得られない視点を鑑賞できた。目の高さ(視点と視界)、位置関係、背景にあるもの、全ては偶然ではなく意味がある。

どの写真も鏡と窓の要素を備えていて、講演会(担当学芸員との対話形式)で撮影した時の状況を説明する様子と、出来上がったプリントの静かで落ち着いた感じ、突き放してオブジェとして観察している眼とは少し乖離があり、潮田さんでしか成立しない空気があって飽きなかった。


写真、写真術の起源、ダゲレオタイプについては『記憶する鏡』と詩的に伝えられてきた。無自覚ではなく、受動的ではなく意図をもって出来上がった静謐なモノクロのプリント。展示タイトルの『永遠のレッスン』は恐らく問われたことがあるだろう「なぜ、撮るのか」という素朴な疑問や何十年も続けてきて、どうなるのか?の答えになっている。

展示会場の2階では関連企画で写真機のコレクションが展示されている。かなり貴重な大判のカメラ、大型のもの、鉄製で運ぶのに大変だったろうというものがある。まとまった数のクラシックなカメラコレクションと誰が撮影したのかは不詳だが興味深いもの手札サイズぐらいのプリントが並んでいる。

内と外の鏡と窓を永遠に往還する過程のプリント。撮影して撮った時のことを思い出したり内側との対話が生まれてくる。見る側にとっては即物的に建物、本、冷蔵庫、構図などがひっかかりになり鑑賞することで内にも外にもいける。そのくらいの情報量が備わっているので、じっくり見ていると何時間でも経過してしまいそうだ。

絶版になっている作品集も多く、まとまった数の大判プリントがみられる本展は貴重な機会。

むしろどうしてこれまであまり開催されていなかったのか不思議なくらいのクオリティで、展示の設計も見やすくて良かった。

銀メッキした銅板に写す手法のダゲレオタイプは複製は不可能ながら、鏡面のように磨かれた銀板に写しだされた精緻なイメージが「記憶する鏡」とも言われ、人々を驚嘆させた。
https://bijutsutecho.com/exhibitions/5339

自分は写真を撮って二年目ぐらいで写真評論誌に小さく載せてもらって、そこから少しずつ考えながら撮るようになって編集の仕事をしたりカオスだった時から、かなり違う事をして、今年もいくつか事業を考えている(去年も10~ぐらいサービスは考えて潰したりしている)ので作品供給があまりできていない。筋トレみたいにスナップは撮っているけれど生存報告的なものであまり意味はない。意味はないけれど欲求や必要に応じて撮る、というべきか。
仕事っぽい写真の撮影や仕事で会った方を撮らせていただく事もある。初期の頃みたいに代替行為として撮る、動物的にとにかく撮るが無くなって15年ぐらい。
その時に「何か」も無くしたのかもしれない。


無くしたことすら気づいていなかったように思う。
そんな中で、淡々と、ずっと続けることの意味と、繰り返し見る撮るということの素晴らしさを思い出させてくれた展示。講演会も行って良かった。
撮らなくても見るのが好きな人や撮ることについて考えたい、人文学的に興味があるという方にはまずお勧めできる。


展示会情報

  • 日程2023年1月28日(土)〜2月26日(日)


尾崎行雄邸 過去に潮田さんご一家が暮らしていたところ。


邸宅はクラファンなどを通じて解体を免れ、修復などをしているらしい。
テレビを持っていないのでNHKも見れないがおもしろそう。 
(テレビを買う予定はなく、無い事で全く不便がなく、退屈でむしろ邪魔なのでテレビが無い状態を続けようと思う。持っている方は見てみてください)

写真展の図録。限定1000部。会期限定。無くなったら終了との事。解説などが収録されている。

個人的なこと。

(なお、どうでもいい個人的なことを書く。今回、会場に行くことになったのは新年早々に潮田登久子さんのご家族の方から年賀状とフライヤーをお送りいただいたのが、きっかけだった。お送りいただく前段階で、話は97年に遡る。写真評論紙の『デジャビュ』での講評会に参加して、写真を小さく掲載していただいたことがあった。選者の写真家は毎回、変わりいまにして思うと豪華メンバー。当日、選んでくださったのが潮田さんのご家族の写真家の島尾伸三氏だった。ブログやネットで発表するのが当たり前ではなかった当時(インターネット以前。初代iPhoneが出る10年前)の事で写真評論主体の雑誌(隔月か季刊の雑誌→新聞スタイル)に掲載されると思っていなかったので嬉しかった記憶がある。そこから写真集が出て、現代アート系に流れて写真表現をするのは別の話。たまに年賀状、展示会のお知らせをいただく感じだった。今年はついに出不精なのを押し込んで出かけて、とうとう25年ごしにお礼を伝えることが出来た。たいして活動はしていないものの、変な触り方やくだらないことを言ってくる人、つまらない僻みの類は全部、背景として処理できる、自分のやりたいことをするのに必要なガソリンみたいなものをもらった。感極まって泣きながらだったので、かなり変な状況だったかもしれないが、ミッション完了してよく眠れた)


いまはさらに別の事をして、AIとVRの会社や事業を考えているので作品供給があまりできていない。Sci-Fi系の夜景や違うシリーズは撮影しているもののなかなかまとまらない。
高島屋新宿のアートショップの企画で写真を出したのが最後かも。主に写真表現とCG、画像生成AIからストーリーを作る。作家活動はネット中心になるもスローペース。
https://instagram.com/nakaakishops?igshid=YmMyMTA2M2Y=




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