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【よむ議事録02】初回オープンミーティングを終えて

※こちらの記事は、筆者であるmvchomaya(マヤ)個人の視点からのイベントの振り返りとなっています。

※イベント全体の様子はこちらの記事をご参照ください。
▶︎『【アーカイブ】オープンミーティングvol.1 「哲学対話、出会いのきっかけは?」』




では、改めましてmvchomaya個人の視点から前回(2024/6/24開催)のオープンミーティングを振り返ります。


当日の様子

今回のきっかけ


この度は、とある親子同士での交流会に参加した際に「こんなんしますよ〜」と活動のお知らせをしていたら、
親御さんの一人チカさんが「哲学対話」にセンサーを反応させ、声をかけてくださいました。

チカさんもかねてから哲学対話やファシリテーターに興味をお持ちだったとのことで、意気投合し、共にまずは語らってみよう!

と、いうことでオープンミーティングをするに至りました。

ちなみに、この度のテーマ「哲学対話、出会いのきっかけは?」は、チカさんとやりとりをしている中で「マヤさんの哲学対話に出会ったきっかけなどきいてみたい」とのリクエストから。私だけでなく、それぞれの出会いや興味を持ったきっかけを糸口に語らえたらいいのかな、と。

そのまんまタイトルに。

当日はチカさんやELCAのメンバー、初めましての方を含め7名(私含めると8名)にお集まり頂きました。

まずは、活動紹介をかねて、私の方から、活動の動機や今に至る経緯等をお話し、、、。(この辺りはこのページでは割愛させて頂きます。ゆくゆくはこの辺りも書き綴っていきたいです。)

その後、チカさんご自身の「哲学対話に興味を持ったきっかけ」を皮切りに、それぞれのエピソードや考えを共有し合いました。


印象に残ったポイント


この度の座談を回想し、改めて嬉しく感じた点や面白かった点、今後の活動のヒントになりそうな点など印象に残ったポイントを書き出してみます。

①「五感を使った共有体験」に思いの外、共感や賛同の声

活動の概要説明の中で「であいなおしワークショップ」(◀︎もしかしたらネーミング変わるかも) を紹介しました。

こんな感じ。

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『であいなおしワークショップ』とは、いわば『対話の赤ちゃん』みたいなイメージ。「対話ってこういうものだよね」という予め暗黙の共通認識のもと行う対話ではなくて、改めてそのプロセスを分解し、自分たちが指し示したい「対話」のエッセンスを抽出し、対話がはじまるところからやってみよう、という試み。
具体的にいうと、言葉より先に五感を使った共有体験を行い、その中で各が『感じたこと』をまずは言葉にしてみるところから。例えば、同じものを食べてもそれぞれ感じ方や連想することは異なる。

「それぞれ感じ方、考え方が違うよね」という対話の前提を概念で共有するのではなくて、実際に同じ体験をし、言語化することで自ずと「異なる」という事実が見えてくるのでは、と考えたから。、、、、

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私たちがこのワークショップを考えている中で、ポイントの一つだと感じているのは、感じることさえできれば、老若男女、同じ土俵の上で対話の始発をできるのではないか、というところ。立場の違いだったり、経験値の違いだったり、文化の違いだったり、もしくは、既存の関係性を飛び越えて、同じ体験をし「私の感じたこと」、「あなたの感じたこと」を言葉(もしくは言葉以外の表現でもいいと思っている)を通して共有する。知識や経験、語彙力に関わらず「感じる」ことは誰にでも備わっている機能であるから。

そんな企画中のワークショップの紹介をしていたら、それぞれの実体験からも、共同作業や共有体験、五感にクローズアップすることの大切さやコミュニケーションにおける有効な手段であると再認識させられるような意見がありました。

例えば、

・子供にいきなり言葉を投げかけるより、はじめに「共になにかする」ことで相手の言葉も引き出しやすくなるのでは

・立場の異なる人や距離がある人同士、もしくはコミュニケーションが苦手な方など「共になにかする」ことが人と人と繋げてくれ、自然にコミュニケーションが生まれたりすることがある

・「同じ釜の飯を食う」なんてよくいうけれど、共に過ごし生活し、時に困難を乗り越えることで信頼関係が育まれ、しんどい時に互いに励ましたり助け合ったりできる


こんな言葉を聞いて、これから実践していく上で、こちらの独り相撲ではなく「いいね」や「やってもいいんだよ〜大丈夫だよ〜」と客観的にも背中を押してもらえたような気持ちになりました。

②子供達との対話、これポイントかもしれない!


チカさんの関心の一つが「子供との哲学対話」であったこともあり、自然に子供との対話や関係性についても触れることがありました。

その中で一つ大切なポイントかもしれない!と思い至ったのが「対等な立場」です。これは、子供対象に限らず、哲学対話では大切な点なのではとも思います。
が、特に子供との対話の中ではつい見落としがち、、、というか「こちらは対等なつもり(でも実はそうじゃない)」みたいなことがあるのでは、と。

振り返ると、ELCAP(2016~2020年活動)でのワークショップのとき、子供達から、無理に言葉を言わせようとすることはありませんでした。だけれども、子供達は生き生きしながら、時に詰まらせながら、彼らの言葉を吟味し口にしてくれた記憶が残っています。一方で、大人も大抵は傍観者や保護者としてでなく、子供達と全く同じ内容のプログラムをやってもらいました。子供がオジサンを宇宙人にするなら、大人もオジサンを宇宙人にしました。子供がドラムを叩くなら、工作するなら、大人も一緒にやりました。得意でも苦手でも。
その中で、語らうことも共にやりました。

そこに特に、大人だから子供だからという線引きはありませんでした。
そして、それは楽しかった。(実際にはうまくいかなかったところもあったと思います。)
でも、それらは瑞々しい時間で楽しかったという印象が残っています。

この時のことを思い返すと、やはりその場にいた人が「対等」であったのかな、と。


余談ですが、オープンミーティングの中では、図らずもこれまでのELCAPの経験を引き合いに出すことが幾度かこれまでやってきた活動の価値を再認識したのも個人的には嬉しいポイントでした。

③「非言語コミュニケーション」というキーワードが飛び出し、考えさせられた。今も考えさせられている

これです、これ。

話の中でこれが出てきた時、うっと腹をえぐられたような不意を突かれた感覚でした。

参加者のお一人(この方は禅寺の和尚さん)の言葉

「言葉のコミュニケーションもあるけど、非言語コミュニケーションもあるよね?
表情だったり、空気だったり。

一方、言葉で突き詰めて考えすぎて病む方もいらっしゃる。

座禅を組んだり、瞑想をしたりしていると、心で通じるという感覚が生まれてくる。国籍や世代を超えて、通じ合える。お互いの感じていることがわかるんだよね。言葉じゃない部分で。

時に、寧ろそちらの方(非言語の要素)が、コミュニケーションの主な部分なのかとも思えてくる。」

(思い出しながらの台詞なので、ご本人の正確な
言葉と少しずれているかも。お許しを。)

転じて私の中に浮かんだ問い、、、、
コミュニケーションに言葉は要るのか、要らないのか。
言葉があるからコミュニケーションが取れるのか。
言葉がなくてもコミュニケーションは取れるのか?
言葉がむしろコミュニケーションの邪魔をしていないか?


図らずも午後からは映画「ぼくたちの哲学教室」の作品鑑賞会を行いました。
(※映画鑑賞会は会員および公式LINE@elca_elcapお友達限定での催しでした。)

この映画は、北アイルランド、ベルファストにあるとある男子校が舞台のドキュメンタリー。主要科目になっている「哲学」の授業を行い真摯に生徒と向き合うケヴィン校長と、彼の教えのもと彼らの住む地域の現状や日常の中で「哲学」していく生徒のやりとりを映し出している。
校長先生が様々な形で生徒に問いを投げかける。生徒は自他に向き合い、気持ちを吐露し、思考を整理し、相手の立場を想像したり、振る舞いのあり方や新たな選択肢を模索していく。

そのプロセスの中で、彼らをつなぎ止め、思考のアシストをしてくれる必要不可欠な存在、それが「言葉」なのである。

うーん、ますますわからなくなる。

言語、非言語どちらも大切なのだとは思う。


これはきっと正解は一つではないし、仮に一つの問いに対しても捉え方や切り取り方によって、随分と意味は変わってくるのだと思います。
だけれども、今後活動をしていく上でなにか鍵になってくる気がしています。
、、、答えを急がず
今後の活動の中で、取り上げたいテーマがまた一つふえました。

〈作品のあらすじ HPより〉

様々な出来事や背景を抱えながら日常に「言葉」
北アイルランド、ベルファストにあるホーリークロス男子小学校。ここでは「哲学」が主要科目になっている。エルヴィス・プレスリーを愛し、威厳と愛嬌を兼ね備えたケヴィン校長は言う。「どんな意見にも価値がある」と。彼の教えのもと、子どもたちは異なる立場の意見に耳を傾けながら、自らの思考を整理し、言葉にしていく。授業に集中できない子や、喧嘩を繰り返す子には、先生たちが常に共感を示し、さりげなく対話を持ちかける。自らの内にある不安や怒り、衝動に気づき、コントロールすることが、生徒たちの身を守る何よりの武器となるとケヴィン校長は知っている。かつて暴力で問題解決を図ってきた後悔と挫折から、新たな憎しみの連鎖を生み出さないために、彼が導き出した1つの答えが哲学の授業なのだ。


メモ書きより


※走り書きの為、前後脈絡のない部分や、単語の部分もあります。

◆チカさんが哲学対話に興味を持ったきっかけ

・お父様が哲学的な話をする方だった
・英語での読み聞かせの活動をしているが、近年、英語学習以前に子供の語彙力の問題をよく耳にするようになった。
→(例)「どう思う?」と感想を聞かれても、「よかった」や「わからない」など単調な返答。
・実際に我が子に感想を聞いてもこちらの期待する「言葉」返ってこない。言葉を引出したい、引き出せない。難しい。
・(ELCA・ELCAPの活動に対して)五感を使ったワークショップに共感。共通体験や、五感からの切り口は子供たちにとって自然で入りやすいのでは?

◆ちさん(elcaメンバー)より

・「だれかとなにか」共有体験、対話、大切
・一昨日の出来事、(江田島の将来像を聞かれて答える)児童の素直な言葉、胸を打った

◆ELCAP活動からの経験

・五感を使ったり、非言語表現を交える(コラージュ、ドラムサークル、おじさんを宇宙人に、など。)
・振り返ってみると大人と子供「対等」な立ち位置だった。
・無理に話さなくてもいい。けれど一方で一緒に過ごして、出てくる言葉がある。


◆Tさんより

・出会う場所
・共有体験、感じること
・左脳、右脳の発達
・広い意味での対話
・自身も子供時代はどちらかというとシャイで内気だった。
・文章表現など内的対話が多かった。

◆Kさんより

・女性、会話得意で他者と打ち解けるの得意。
・つなぐコミュニケーション
・サロンでのおじいちゃん(男性)、おばあちゃん(女性)の違い
→女性はおしゃべりで人の輪のに入り安い
→おじいさん(男性)は大抵、隅の方に
→なにか一緒に手を動かしたり、共同作業が自然に人を繋いでくれる
・禅寺・座禅における非言語コミュニケーション
→言葉を使わなくても、国籍や文化を超えて相手との「つながり」を感じることができる
・(例)親子での座禅ー親子で向き合う(敢えて)
→子供の方がリラックス、大人は大抵カチコチ
→相手を「褒める」言葉を掛け合ってもらう
→世代間交流
・ビーガンカレー、せんねんどう
・沈黙

◆nuiさん(elcaメンバー)より

・ELCA、ELCAPの活動や哲学対話を通して自分の「考え方のクセ」のようなもの見えてきた
・この10年活動での多くの刺激をもらった。活動への参加がなかったら、今頃考え方が固まっていたかも

◆その他

・違和感、不和感も大切


今後のオープンミーティング議題案

今後こんなのやりたいな〜、話したいな〜

・60代の為の〜
・子育てあるある
・英語での対話をするには?
・哲学って難しい?
・自分たちで担っていく哲学対話〜何が必要
・英語で哲学カフェ
・ファシリテーターどうするか問題
・言語/非言語コミュニケーションについて(相違点など)


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