見出し画像

秋は自分と向き合うのにちょうど良い。その理由とは?

こんにちは。エラマプロジェクトの和文化担当、橘茉里です。

秋が深まり、紅葉の美しい季節がやってきました。

食欲の秋、読書の秋、スポーツの秋。
皆さんはどんな秋を思い浮かべるでしょうか?

楽しくワクワクする秋の過ごし方がある一方、秋は多くの人に物悲しい、寂しいという感情を抱かせる季節でもあります。

今回は特に紅葉に着目しながら秋の文化についてご紹介し、さらにエラマ流の秋の過ごし方についても考えていきます。
さあ、秋について考えてみましょう。

もみじはなぜ「紅葉」と書くの?

「もみつ(もみず)」という動詞があります。

これは「秋になり草木が赤や黄色に色を変える」という意味の動詞で、実はこの「もみつ(もみず)」を名詞化したものが「もみじ」なのです。

現代では、もみじを「紅葉」と表記していますが、奈良時代には「黄葉」と書くことが多かったようです。

どうして「黄葉」と書いたのかというと、漢籍(中国の書籍)で「黄葉」と表記していたことに影響を受けたからです。

そして平安時代には「紅葉」と書くようになっていきます。

表記が「黄葉」から「紅葉」に変わったのは、中国で「紅葉」という表記が増えたため、日本でも「紅葉」になったのだという説があります。

おそらくこれが「黄葉」から「紅葉」に変わった一番の理由だと思われますが、他の理由として、紅という色の価値が関係しているかもしれないと感じます。

紅色は紅花から作られます。作るのにとても手間がかかるので、かつて紅は、金に匹敵するほど価値あるものでした。

「真紅(深紅)」という言葉は、今では真っ赤や濃い赤という意味で使われますが、元々は真の紅のことでした。

つまり本物の紅花だけを使った色を指します。茜や蘇芳など、他の植物から取れる赤色を混ぜた色と区別して、真紅と呼んだのです。

そして貴族社会の中で、紅は憧れの対象であり、愛好された色でした。

こういった事情から、もみじの美しさを表す表現として、貴族には黄葉よりも紅葉の方が好まれたんじゃないかなぁと想像します。

紅葉の美しさを詠んだ、百人一首の有名な和歌があります。
 
ちはやふる 神代も聞かず 竜田川 唐紅に 水くくるとは
 
これは平安時代のモテ男、在原業平が詠んだ歌です。
 
簡単に訳すなら「散ったもみじが竜田川をこんなに赤く美しく彩る情景は、神々の時代にだって聞いたことがない。それほど素晴らしい景色だ」となりますが、業平がもみじを唐紅(からくれない)と表現しているところがポイントです。
 
唐紅は鮮やかな濃い赤のこと。
 そして色を指すだけではなく、色の美しさを称賛する語でもあるのです。
 
このように業平がもみじに対して唐紅という称賛語を使っていることからも、平安人が赤い葉に美しさを感じ、愛好していたことが分かります。

あなたは紅葉と黄葉、どちらがお好みですか?

紅葉という名の鬼女を舞う

能に『紅葉狩』という作品があります。

信濃の国(現在の長野県)の戸隠山には紅葉という名の鬼女が棲んでおり、平維盛(たいらのこれもち)という武将が鬼退治にやって来るというストーリーです。

戸隠山にやってきた維盛は、山の中で紅葉狩の宴を開く美女に出会います。美女の誘いに乗って宴に混ざり、すっかり酔って寝てしまう維盛ですが、この美女の正体が鬼女だったのです。

この物語をモチーフにして、私は剣詩舞道家の見城星梅月(けんじょうせいばいげつ)さんとともに鬼女・紅葉の姿に迫ったことがあります。

星梅月さんの舞う詩舞とは、漢詩や和歌の吟詠(歌)に乗せて、扇子を用いて舞う伝統芸能で、彼女はエラマアートの講座やエラマ文化祭など、エラマプロジェクトのイベントにも数々出演されている舞踊家です。

星梅月さんと私は「詩舞×国語」というキーワードのもと、詩舞をより分かりやすく、より深く鑑賞してもらうためのイベントを主催しており、そこで鬼女・紅葉を取り上げたことがあります。

実は能の『紅葉狩』では、鬼女・紅葉にはどのような過去や背景があるのか、どういう人物像なのか、深くは語られていません。

そこで私たちは、紅葉は元々人間の女性だったという設定にして(実際にそういう伝承もあります)、どうして紅葉は鬼になってしまったのかを想像しながら、紅葉のキャラクターを考えました。

そして出来上がったのは、強くも孤独な鬼女の姿でした。

人間だった頃、紅葉は悲しい恋愛をした。それは鬼に姿を変えてしまうほどつらいものだった。

鬼退治にやってきた平維盛を酔って眠らせ、紅葉は「夢から醒めないでくれ」と言い放ちます。それは維盛が起きてしまったら、維盛を殺さなければいけなくなるから。

一人寂しく戸隠山に潜む紅葉は、敵である維盛にほのかな情を抱いてしまったのだった……。

そんな紅葉の姿を、星梅月さんは妖しく艶やかに舞ってくださいました。

今、改めて「なぜ私たちは、紅葉という女性を孤独で寂しい存在にしたのだろう?」と考えると、鮮やかで美しい景色であるはずの紅葉に対して、どこか物悲しさを感じていたからだろうと思うのです。

秋になると寂しいのは今も昔も同じ

どうして私は紅葉の景色に物悲しさを感じるのだろう?と考えた時、次の和歌が思い浮かびました。

奥山に 紅葉踏み分け 鳴く鹿の 声聞く時ぞ 秋は悲しき

人里離れた山の中で、散った紅葉を踏み分けながら、恋しい相手を求めて鳴く鹿の声を聞くとき、秋は悲しいと感じるよ。

こういう意味の和歌です。
私が紅葉に感じている物悲しさを、この和歌はとても巧みに表現しているなぁと感じます。

牝鹿を求めて鳴く牡鹿の鳴き声を、昔の日本人は悲しいという感情と結びつけました。

また、清少納言が書いた『枕草子』の「春はあけぼの」の段では、秋の描写に雁が出てきますが、雁の鳴き声も寂しさや悲しみを感じさせるものとして古典の中に登場します。
 
これはもちろん鹿や雁といった動物自身が悲しいと思っているわけではなく、その鳴き声を聞く人間が悲しみを感じ取っているわけです。

秋になると物悲しい気分に襲われる人は多いと思いますが、それは古典の時代からなのですね。

では、なぜこんな気持ちになるのでしょう?

科学的には、どうやら気温の低下や日照時間の減少などが影響しているようです。

心の安定や安心をもたらすホルモンのセロトニンは、日光を浴びることで分泌されますが、秋になって日照時間が減ることで分泌されづらくなるので、心が不安定になりやすいのだそう。

秋の悲しさについて、香川大学医学部・臨床心理学科の竹森元彦教授が回答している記事が興味深かったので、要点をご紹介します。

竹森教授によると、春は生まれてくる季節、夏は活性化する季節なので多くの刺激があるけれど、秋になると刺激が減っていくのだそうです。そして、刺激が減ったことで生まれる心の余白が寂しさになっているのではないかと推測していらっしゃいます。

その上で竹森教授は、「余白をどう楽しむかが秋なのかもしれない」「寂しいという感情を抱えてみることも大事」「心の余白があることで、自分の深層心理や欲求が現れやすくなるので、秋は自分と向き合いやすい」と話されています。

エラマ流、秋の過ごし方

竹森教授のお話は、エラマプロジェクトの価値観にとても近いように感じます。

実は、フィンランドと和文化の絶妙なつながりを探究する「和えらま」の講座では、余白について扱ったことがあります。(こちらの記事でも触れています)

この講座は、フィンランド生涯教育研究家の石原侑美さんと私が講師を務め、フィンランドと和文化の視点から、豊かで幸せな生き方のタネをお届けしています。

余白をテーマにした回では、フィンランドも日本も、デザイン、空間、美術、料理の盛り付けなど様々な場面で余白を大切にしていることをお伝えしました。

余白があることで心のゆとりが生まれたり、想像する余地ができたりするので、余白が心の豊かさにつながっていると考えています。

竹森教授の説のように、秋に感じる寂しさが心の余白によるものなのだとしたら、エラマ流に考えれば余白は豊かで幸せな生き方を目指すチャンスです。

竹森教授も秋は自分と向き合いやすい季節だと話されていましたね。

秋に寂しいと感じたら、それは自分と向き合うタイミングが来たのだと捉えて、ゆっくりマイタイムの時間を取ってみてはいかがでしょう?

Text by 橘茉里(和えらま共同代表/和の文化を五感で楽しむ講座主宰/国語教師/香司)


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?