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「仲良し」と「仲が良い」って何か違う。「哲学バー」で哲学した私の交友関係

皆さん、こんにちは!Kangasこと、ライフコーチの和田直子です。いかがお過ごしですか?
今日は「オンラインBAR:哲学バー」のタイトル特集、その名も"哲学バー2号店"をお送りします。
「哲学バー」とは、エラマプロジェクトが作ったオンラインのサードプレイス。お酒やお茶を片手に、その時のテーマについて、バーのチーフバーテンダー、マスターとともに、常連客や一見さんが哲学してみる、ゆるりとした繋がりの場です。

今回取り上げられたテーマは「仲良しって何?」。
子供の頃、「仲良しになりなさい」「仲良くしなさい」と言われた経験に違和感を抱いていたという常連さんから出されたテーマ。
確かに、どうして人から「仲良しになりなさい」なんて言われなきゃいけないのでしょうね。とは言え、かくいう私も、そういえば職場で、部下同士がバチバチしているところを見て、「仲良くしてよ~」って言ってたなあ。

ということで哲学バーにふらりと入店した私が、私なりに哲学してみた「仲良し」についてお届けしてみたいと思います。


「仲が良い人はいるけど仲良しはいない」

そう言えば私は、仲良し!って思う人がいないなあ…。

哲学バーが始まってすぐに、私はそう思いました。
仲が良い人はそれなりにいるけれど。たまに人から「直子さんは〇〇さんと仲良しですよね!」「お二人は仲良しだね!」と言われても、否定はしないけど何だかしっくりこない感じがしていました。みなさんはそういうことありませんか?端から見ると「仲良し」だけど、自分ではその関係性を「仲良し」とネーミングしていないこと。

だけど、「仲が良い」と思う人は何人も顔が浮かぶ。この違いって何なのでしょう?

そんなことを言う私が、今までの人生で一人も「仲良し」がいなかったかと言うとそんなことはありません。記憶の中で最も古い「仲良し」は、物心ついたときにはすでにいた1歳上のけいこちゃん。母親同士・姉同士も仲が良くて、小学校低学年くらいまで「仲良し」でよく遊んでいました。今でも年賀状を送り合う仲です。
その後の私の「仲良し」と言えば、高校2年3年の頃の「仲良し5人組」。この5人でいると毎日が大笑いの日々でした。
ですが、いつもべったり5人というわけでもなく、他のクラスメイトとの接点もありながら、結局この「仲良し5人組」に戻る、心地よい絆の距離感でした。

それが私の「仲良し」体験。それ以外に「仲良し」だった人って、あまり思い出せません。

「仲良し」と「仲が良い」。この二つは私にとって、単に名詞と形容詞の違いだけではなさそうです。

「仲良し」とは自分の存在価値を見出す安心材料?

高校時代の仲良し5人組が出来上がった頃、私は「このメンバーで仲良しになりたいな」「仲良しメンバーになれたかも!」という気持ちを抱いていたことを思い出します。

振り返ってみると、私が小学校高学年頃~中学の思春期の入り口にいた頃、小説や映画に出てくるような「THE友達!」といえる、お互いの心を通わせることの出来る交友関係に憧れていたような気がします。
でも、そんな存在と出会えることもなく、どこか物足りなさを感じる友達付き合いをしていました。その後、高校生になってようやく出会えた「仲良したち」。心底ほっとしたような、憧れに手が届いたような、そんな気持ちで心が満たされたようでした。

そして高校卒業後、私だけが一人暮らしで県外へ出ることに。学生時代も帰省の際に集合したり、旅行へ行ったり、「仲良し」はしばらく続き、それぞれの結婚式で顔を合わせて懐かしみ、だんだん私たちの青春も落ち着いていったという感じです。

哲学バーでそんなことを思い出し、それ以降の「仲良し」はいないことと、私の「仲良し探し」には終止符が打たれていることに気づいたのです。だけど「仲が良い」人の顔は、20代後半、30代、40代とそれぞれの年代でいろんな人の顔が浮かびます。

高校時代、仲良し5人組が結成された時のあの安心感。私はもう、それを求めなくなっている。そんな気がします。思春期の入り口で、私の居場所はどこだろうと、この子かな?あの子かな?と友達やグループというものを意識しすぎていた私は、きっと自分を誰かと「仲良し」認定することで自分の存在価値を見出そうとしていたのかもしれません。

私にとっての「仲良し」は、アイデンティティを形成しきれずにいる「私」という存在を、どうにか自分で認めるための安心材料として求めていたものなのだと思います。

「仲が良い人」それは自分軸で生きている証

哲学バーのお客さんから、こんな話が出ていました。
「他人とうまくいかないのは、自分が自立していないから。自分の機嫌を自分で取らず、他人に取ってもらおうとする」

ふむ。なんか分かる気がする。

私にとって「仲良し」が必要なくなったのは、自分軸が出来上がったから。「仲良し」に頼ることなく、自分の存在価値を十分に感じられるようになったからかもしれません。「仲が良い人」との関係性に自分の存在価値を見出すことはしませんし、「仲が良い人」に求めることはお互いの自分軸を尊重し合うこと。

誤解のないように申し上げると、これはあくまでも私の「仲良し」「仲が良い人」論です。

「仲良し」は自分の存在価値を見出す安心材料だと言うならば、別に「仲が良い人」がいなくても生きていけるということ?

それはそれで、想像すると苦しくなります。いつかの私が、物足りなさや寂しさを感じて「仲良し探し」をしていたように、「仲が良い人」がいないと何だかつまらない人生のような気がします。

哲学バーのマスターが言っていました。「『仲』という字は『人と人のあいだ。なか。』」だと。やっぱり私も、自分にとって一緒にいて価値のある、人と人との間で良い関係を持ちながら生きていたい。それが私にとっての「仲が良い人」たち。

そんな人たちがいることを感じ満たされながら、白ワインで哲学バーをした夜でした。

さて、次回哲学バーは、8月5日(月)20:00~22:00です。一見さん大歓迎のこちらのバーには、「哲学対話のテーマ」しかメニューにありません。お酒やおつまみはご自分で。ジュースでもよし、アイスクリームでもよし。あぐらをかいてもよし、寝転んでいても良し。だから聞き専でも良しなのです。もちろん、いつ来てもいつ出ても良しですよ。

さあ、次はどんなテーマがメニューに上がるのでしょうか?
詳しくはエラマプロジェクトHPのイベント情報「エラマの学校」をチェックしてください。

そして、次号の"哲学バー2号店"もどうぞお楽しみに!

Text by Kangas(和田直子/しなやかで強く優しい社会を織りなすライフコーチ)

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