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「教養」とは自分の言葉を取り戻すこと

こんにちは、いけかよです。

数年前から、書店に行けば「教養としての●●」みたいなタイトルの本をよく見かけるようになりました。

ことに、アートや芸術全般、哲学とかが主にそういうものに取り上げられている気がします。

でも、リカレント教育の枠組みでとある大学が提供しているビジネスマン向けの教養学部コースでは、アートだけじゃなくて経済、宗教、宇宙、科学、歴史なんかもカリキュラムで網羅していました。

だから教養って芸術に精通してるって意味でもなさそうです。

昨今ことさらに叫ばれている「教養」。
しかしこれってそもそもいったいなんなんでしょう??
雑学王=教養のある人、っていうわけでもない気がする。

というわけで、あくまでわたしの見解ではありますが、「教養がある」とはどういうことかを考えてみたいと思います!

「教養主義」なるものがあったらしい

先日、とある講座を受けたのですが、そこで「教養主義」という言葉が出てきました。
それ自体は言葉通り「教養が大事だ」というもので、芸術や文学をはじめとする文化を知り、身につけておくべきだという主義ですが、江戸、明治、大正、そして戦前戦後と、時代によってその意味や求められるものが変遷を辿っていったみたいです。

ここらへんは詳しく語るのはちょっと難しいので割愛しますが、ざっくり言うと、教養というのはある時代には「論語が身についていること」だったり、また別の時代には「文学全集を読破していること」だったり、さらにまた別の時代には「哲学書を読み漁っていること」だったりする、という具合。
(そして教養が軽視されていた時代ももちろんある)

そして近年書店で見かけるようになった「教養」系は、「ビジネスで恥をかかないためのもの」になった気がします。

ひとつ断っておきますが、わたしは「教養としての●●」シリーズや「ビジネスマンのための教養」的な本はほとんど読んだことがないので、あくまでタイトルからの印象のみで語っていることをお許しくださいね。

しかし、そんな「ビジネスで恥をかかないための」的な現代の「教養」、タイトルからそんな匂いがするということは、それを求める読者がいるからということなのでしょう。

じゃあなぜビジネスで教養が必要なのか?

ちょっと時代をさかのぼりますが、日本って、戦後は経済成長してくるなかで欧米(主にアメリカ)の文化や政治手法を取り入れることで、どんどん日本(人)としての誇りを削ぎ落とされてきた感はありますよね。
実際、なにかにつけてアメリカでやってることが(日本よりも)最高最善最先端、みたいな無意識の思い込みって、みなさんにあるはずです。
もちろんわたしにもあります。わたしの憧れはアメリカではなくイギリスやフランスのほうにありますが、いずれにしても「その国より日本が劣っている」という意識が働いていることに違いはありません。

そんなコンプレックスから、国をまたいでビジネスをする日本人たちが、相手国の人たちと同等に語り合えるための手段として「教養」が求められるようになったと。
そこでのお題は、絵画や演劇や哲学や文学なわけですよね。

そして、最近ではそれがさらに進化?して、国内においてもビジネスでブレイクスルーするためとか、新しいものを生み出すためとか、マネジメントのためとか、そのための助けとしてそうだいまこそ教養だー!ってなってる感があるようにも思います。

もちろん、それに意味がないなんて思いません。
知っていることは少ないより多いほうがいいと思うし、引き出しが少ない人よりも多い人のほうが魅力的でしょう。

でも、往々にして「知識を詰め込む」という行動になりがちな「教養」ですが、ひたすら学べばそれで「教養のある人」になるのかって、ちょっと違う気がするのです。

インプットしまくれ!に若干の違和感

よく「いいアウトプットのためにはひたすらインプットしまくれ」ということが言われます。文学や歴史でもそうですし、デザインやビジネスモデル、セミナーなんかも。

でも、わたしこれはちょっと違うんじゃないのかなと思っています。

もちろん、自分のなかになんのストックもなければ生み出すことは難しいでしょう。「学ぶ」が「真似る」から派生した言葉だと言われるように、基本的には知識を詰め込んで、真似て、それを材料になにかを作り出すという行為自体は自然です。
また、インプット=学ぶこと自体が大好きだからそれをするということには何の異論もありません。
もひとつ、学生や若い人たちなどは、貪欲にインプットをしたほうが良いと思います。世の中には素晴らしいものがたくさんあるので、それらは生きる希望をくれるから。

ただ、ある程度の大人が大量にインプットしなければならないのか?には疑問符がつくのです。

どちらがより重要か問題でいうと、当然アウトプットだと思うのです。アウトプットするからこそ、インプットの重要性が増し、乾いたスポンジが水を吸収するが如く、インプット効率はぐんと増します。
アウトプットするからこそ、自分に何が足りないかがわかるから。

人間の脳ミソにはリミットがあると思うし、時間にも限りがあります。だからただやみくもにインプットするというのは(それが喜びでないかぎり)あまり賢いことだとは思えません。

そう、つまり「大量のインプット」はイコール教養ではない、ということです。

ブロガーとして大成功したちきりんさんの言葉で目からウロコだった言葉があって、それは「私はあまり本は読まない。なぜなら1冊の本のインプットで大量のアウトプットができるから」という主旨の言葉です(だからコスパがいい、的なことも言ってたかも)。

なるほど……!

膝を打ちたくなる瞬間でしたが、このちきりんさんの言葉に、いけかよの思う「教養のある人」のヒントがあると思うのです。

溢れ出る知識とウイットに富む文体、どこをとっても完璧な理論武装のちきりんブログ、彼女にはさぞ大量の読書量がお有りだろうと思ってしまいますが、そんなに読まないとは意外ですよね。
(もちろん、彼女の「そんなに」という基準が凡人とはレベチで「月に30冊って少ないよね」的な価値観だったとしたら口あんぐりですけど)

教養は自分の言葉を取り戻すためにある

ただ、「教養のある人」が彼女のような天才肌の人、地頭のいい人を指すのかと言うとそれもちょっと違う気がします。わたし的にはちきりんさんは秀才というイメージで、教養のある人というイメージとはちょっと違う。

じゃあ教養のある人ってどういう人を指すのか?

まず、わたしは、教養とは「自分の言葉を取り戻すこと」のように思うのです。

ただいろんな知識を詰め込んでも、それが読んだ本の受け売りだったりどこかで誰かが言ってた感のある「借り物の言葉」だったら、そこにはなんの説得力も感慨もないでしょう。

そう、教養のある人とは、インプットした知識をちゃんと咀嚼して消化して自分の血肉にして、そして「自分の言葉で語れる人」だと思うのです。

そうなるために、「教養」を身につけることは、その自分の言葉を取り戻す行為だと思うのです。

なぜ「取り戻す」なのか?

それは、そもそもわたしたちは生まれながらにして自分だけの感受性と自分だけの世界と自分だけの言葉を持っていたはずだから。

小さな子どもさんがいらっしゃる方ならわかるはず。
子どもたちって、「その発想はなかったわー!」みたいなことをいきなり言うし、自分の感覚や感情をしっかり抱きしめているし(幼くてそれを説明できないことはあったとしても)、うれしいとかおいしいとかそういう感動も、言葉をある程度話せるようになってきたらとってもすてきな表現で伝えてくれる。

そこには「借り物の言葉」なんてないのです。
もちろん、表情や言い方による部分もあるでしょう。でも、感じたうれしさもおいしさも、100人いれば100通りなはずなんです。

なぜなら、この世には誰ひとりとして同じ人はいないから。

でも成長の途中で「そんなこと言っちゃだめ」とか「これは違うでしょ」なんて言われることがあったら、自分の言葉を引っ込めちゃってあたりさわりのない物言いになるかもしれない。

また、学校に行くようになれば成績がつけられますから、「自分の言葉」じゃなく「正解の言葉」を学んでしまうようになります。

大人になって働くようになれば「上司に気に入られる言葉」「できる人だと思われる言葉」「めんどくさい人だと思われないような言葉」を選ぶようになります。

こうやって、わたしたちって「自分の言葉」を失っていっちゃう気がするのです。

でも、もともとはぜったいみんな持ってたはずなんです「自分の言葉」。自分の、血の通った言葉。ちゃんと人に届く言葉。

それを取り戻す手段のひとつが「教養」な気がするのです。

教養は、いろんな知的刺激をくれます。芸術や文学が教養の代名詞になっているのは、それらはわたしたちの心をダイレクトに刺激してくれるものだから。
刺激されて出てくる感想や感情や思いは、表現されなければなりません。
それを表現するのは言葉です。
わたしたちは、教養を身につけることによって自らの心を刺激し、感情をわきおこさせ、しっかりそれを味わって最適な言葉を見つけるために熟慮します。
そこで現された言葉こそが「自分の言葉」だと思うのです。

どれだけ膨大な絵画を見、画家を知っていてもたとえば「ゴッホの絵には彼の情熱がにじみ出ている」とか、誰でも言いそうなことしか出てこないとしたら、その人はまだ自分の言葉を取り戻せていないかもしれないと思うのです。

でも、拙くても言葉少なだったとしても、その人がその人の言葉できちんとゴッホについての思いを表現することができたとしたら。

わたしはその人こそ「教養のある人」のように思うのです。

先述の「インプットは多くなければいけないのか問題」について言うなら、この「自分の言葉を取り戻す」まではインプットは多いほうがいいかもしれません。
いろんな感情や思いを自分のなかに湧き立てさせるため、そういうものに出会うことが必要だからです。

でも、それでも、たった1枚の絵画でも、作者の性格や生い立ち、想い、描かれた時代背景や国の歴史、技法や画材などあらゆる「教養」の宝庫です。
それを深く追求するだけでも、じゅうぶんに自分の心を湧かせることができるんじゃないかなぁって思うのです。

逆に言えば、自分の言葉を取り戻せないままただひたすらたくさんインプットしてもそれは単なる「知識」に過ぎず、「教養」にはならないということになります。

これってもちろんライターにも必要なことです。
「考えたことを言葉にできない」という相談をよく受けますが、その理由はひとぞれぞれだとは思います。でもそれをできるようになるひとつの方法は、自分の心に湧いた「なにか」を、しっかりじっくり見つめてそれが「言葉」のかたちをなすまで自分自身と付き合ってあげることなのかなって思ったりします。

自分の中に深く降りていくような感覚。

これを「哲学する」とも言い換えることができるでしょう。

AIと人間を分かつもの

インプットした知識をしゃべるだけならGoogle先生にでもできること。

「教養」も、「知識」を詰め込むだけならAIには勝てないでしょう。

じゃあなぜわたしたちは教養を身につけるのか?
それは自分の言葉を取り戻すため。
いわば「人間」になるためです。
人を人たらしめるのは、その人の血の通った言葉、借り物じゃない言葉だから。

そしてそれは、できればあったかくてユーモアに溢れていて人を勇気づけるものであってほしい。

そう、「教養のある人」とは、取り戻した言葉に愛が上乗せされてこそのもの。
武器は人を幸せにするために使いたいもんね。
だからもちろんいけかよもまだまだ修行中の身なのです。

だからこそ、きっと死ぬまで哲学し続けるのだと思います。

自分の中から、ちゃんと自分の血の通った言葉たちが生まれ続けてくれるために。

では、また!

Text by いけかよ(よむエラマ編集長/エラマプロジェクトCPO)

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