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二人暮らし

三年半付き合った人だったけど、最後に元気でねと言葉を交わすその瞬間も、涙は出なかった。悲しいとも寂しいとも思わなかった私は薄情なのかもしれない。

あの人の荷物が部屋から全てなくなって、更に二週間が経った。私は今日もいつもと変わりなくご飯を食べて慌ただしく化粧をして会社に向かう。仕事が手につかないなんて事もなく、三十分ほど惰性で残業をして家に帰る。涙は出ない。

それなりに思い出は沢山あった。この人以外要らないと本気で思っていたし、もしこの人と別れたら、私の心は粉々になってそのまま粒子になって消えてしまうとそう思っていた日もあった。あれは、たしかに愛だった。

やかんを火にかけ、何か胃に入れようと冷蔵庫を漁る。上段の奥に缶ビールが一本転がっているのを見つけて、手が止まった。
普段お酒を飲まない私にとって、それはこの部屋に残った唯一のあの人の残り香だった。そういえば、これが同棲のきっかけだったなと思い出す。

付き合って半年はお互いの家を行ったり来たりして、週末にはそのまま泊まっていったりする曖昧な日々が続いた。そんなある日、あの人が耳を触りながら言ったのだ。
「ビール買っておいてよ。どうせ俺がいるんだし。」
耳を触るのはあの人が照れた時にする仕草だった。
当時の私はその言葉がなんだかくすぐったくて、一緒になって照れた。その次の日から、あの人はこの家に帰ってくるようになった。毎日、毎日。やがてここは私たち二人の家になった。

やかんが甲高く叫び、ハッとして冷蔵庫を閉めた。飲めもしないビールを捨てるのももったいないし、誰かにあげようとそんな事を冷静に考えながら、ティーバックを入れたマグカップにお湯を注ぐ。そのままリビングのソファに腰掛ける。もう誰かが隣に座る事なんてないのに、つい癖で左側に寄ってしまう。それを誤魔化すようにチャンネルに手を伸ばしテレビをつけた。
私の好きなバラエティー番組も、あの人の好きなドキュメンタリー番組もやっていない。さて、何を観よう。しかし一通りチャンネルを切り替えても気を惹かれる番組は見当たらなかった。いっそ電源を消してしまおうと思ったその時だった。

ふと視界がくすんだ。すぐには気付かないほどわずかな変化だ。少しして、天井の電球が切れたことを理解する。
我が家の照明は天井に六つの小さな電球が間隔を空けて埋め込まれているタイプなのだが、そのうちの一つ、ちょうどソファの真上の電球が事切れたのだ。替えなければ。そう思い、テレビ台の上の収納にしまっているはずの予備を探した。ティッシュやフローリングシートの予備で乱雑になった棚の中から見つけたそれを握りしめ、天井を見上げた瞬間、目頭が熱くなった。

背伸びしても手の届かないこの電球が、前に切れた時はどうしたんだっけ。そうだ、あの人が替えてくれたんだ。
俺だって届かないよ。面倒くさいなぁ。そう言いながら、PCデスクの椅子を引っ張ってきて、言葉とは裏腹に繊細な手つきで取り替えた。私はその時、あの人の顎から首にかけてのラインが男性的だなと思いながら見つめていた。あの瞬間がフラッシュバックする。

涙が一筋、零れ落ちた。その後はもう止められなかった。次から次へと溢れ出した涙の粒が、目尻から流れて耳の中を濡らしていく。くすぐったい。それでも涙を拭う事もせず、私はただひたすら天井を見つめて泣く。

飲めない缶ビール。不自然に空いたソファの右側。届かない天井の電球。この家にあの人の荷物は一つも残っていないのに、私はまだこの家を二人の家だと思っていたのだ。あの人が小さな荷物一つさえも残さずに攫っていった理由。何かが目に入ればその度に別れを実感する。そんな思いをさせない、彼の最後の優しさだったのだ。

「ありがとう。」

まるで天使に語りかけるかのように、小さな声で呟いた。ありがとう。私はちゃんと寂しかったし悲しかったよ。その事に気付かないようにしてくれてありがとう。独り言はそのまま天井に吸い込まれて消えていく。電球は自分で替えよう。明日から、一人で暮らそう。ちゃんと、一人で。

私は一人、声も出さずに泣き続けた。二人暮らしの最後の夜の中で。

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