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小説「実在人間、架空人間」第七話

 人は歳を重ねるに連れて心、つまり脳が成熟していく。

 しかし、そこにあるものは譲れないという精神、プライオリティが一人歩きし、今までの経験が歪んだプライドとして蓄積されていく場合がある。

 それが性格であるといえば間違い無い、遺伝なのかと問われてもそうである、環境なのかと問われても、やはりそうなのである。

 双子の環境は同等である筈だが、互いがまったくの別人格であるというのが気質遺伝。対人関係におけるコミュニケーション能力は環境で決まる、と、心理学では言われている。

 かの精神医学者ジークムント・フロイトは『自ら進んで求めた孤独や他者からの分離は、人間関係から生じる苦悩に対してもっとも手近な防衛となるものである』としている。

 先崎が望んだ孤立は、コミュニケーションにおける自己防衛、他者に期待していないから自分で抱え込んでいる。これは自身の問題の深刻さと比例していて、事が深刻であると自身にある程、人は孤立を求めるのだ。

 罵られた先崎が言った『それ以下』という言葉の意味を知るとすれば、彼が一人を望んだ行動がその答えだ。

「あー、もう、どうすんねん、先崎さん拗ねてもうたやん」

「仕方が無い、私達が強制する権利は無い」

 こうなると少し頼りないが下地、彼に任せるしかないか……。

「あんなのが一緒だと、きっとろくな事にならないわ、これで良かったのよ」

「あんたなぁ、もう、ほんまいい加減にしてや……」

 ここまで極端に女が先崎を毛嫌いするとなると、流石に松葉も呆れたといった様子だ。それにしても何故ここまで女は先崎を嫌うのか、その理由が分からない。

 初めて出会った時に多少の言葉の相違はあったにせよ、たったそれだけの理由でこんなにも彼を嫌うだろうか。

 それにしても先崎に頼めないのは痛い、今回だけならまだしも今後さらに彼の協力を仰ぐ事が困難となりえるのが非常にまずい。

 それに、何となくだが、彼、先崎の名を何処かで聞いた覚えがある。松葉に対しても思ったが、それよりはもっと遠い、何と言うか、聞き馴染みの無い名だ。

 あれこれと考えていると、ふと、この部屋に着く前、あれはいつだったか、ネットで読んだ記事を思い出した。

『首相を暴行し、逃走』

 確か容疑者の名が……、そうだ、そういう事か、先崎大道、彼だ。

 苗字、名、共に一致している。

 顔写真も今思えば似ている。

 彼本人であるかは定かでは無いが、記事の記憶を辿れば、ほぼ間違い無いと言って良い。

 女が彼を極端に嫌っている理由はこれかもしれない、何故私はもっと早く気付かなかったんだ、これなら彼の自身を卑下する言動にも納得がいく。

 だが、理由が分かったからといって私からはどうにもできない。

 女が先崎を許し、先崎が自身を許す、この二つの条件が揃わない限り、この問題は解決しない。各々個人の問題だ、せめて二人を刺激しないようつとめるしかすべが無い。

 それにしても逃走中の犯人が刑事か、確かそんな記述は無かったように記憶しているが、そんな彼がこんな部屋に居るなんて外の人達は誰も予想だにしていないだろうな。

「とりあえずやな……」

 眼鏡のブリッジに触れる。

「下地くん、引き上げる役、お願いできるかな?」

「え、ぼ、僕ですか?」

「うん、そうや、大変やと思うけど、頼めるんは下地くんしかおらん」

「そ、そんな、僕にできるかな……」

「できるって、できるよ、それに最初に志願してくれたんは下地くんやろ?」

「ま、まあ、そうですけど」

「あそこで自分から言えるんわ、かなり度胸が無いとできんよ」

「そうですよ、私も松葉くんと同意見です、下地さんなら絶対できますよ」

「せやんなあ、伊東さんもこう言うてるで、下地さんなら頼れるって」

 松葉は直情的ではあるものの、気付けば彼が場をまとめている、不器用なようでいて、今はしっかりと下地にお願いするという理も持っている。

 そして何よりも素直で根がまじめなのだろう、その素直さが不思議と彼を慕ってしまうのかもしれない。

「そ、そうですか」

「そうやんか、さっきから言うてるやろ?」

「は、はい」

「じゃあ、お願いできるかな、皆もそう思うやろ?」

「うん」「うん」

 ガクとハクが頷く。

「私からもお願いします」

 皆も松葉の意見に賛成のようだ。

「私はあいつが居なけりゃ、誰だっていいわ」

 慌てた様子で右手中指で眼鏡のブリッジに触れる。

「もう、あんたはちょっと黙っといて、な、皆もこう言うてるんや、頼むわ」

「え、えーっと、は、はい!」

「よっしゃ、じゃあ、早速準備しよ」

 その言葉を皮切りに、各々が椅子を手に取った。

 テーブルはすでに端に寄せられていた、私も続いて椅子を手に取った。

「あー、下地くんの支えやけど……」

 松葉が端で座っている先崎を横目で見やる。

「私がやります」

 伊東が志願した。

 一見上手くまとまったが、やはり不安だ。

 引き上げる役が下地、その下地はかなりの細身でそれでいて彼の印象は怯者きょうしゃだ。ひょっとすると松葉の言うように実は気質として強い所もあるのかも知れないが、現時点ではそれを感じ取る事はできない。

 仮に、下地がどうにかやってくれるとしても、肝心の支えが伊東である。

 下地を引き上げる際に伊東が下地の足をしっかりと掴み、固定させる重要な役割を担っている。女性で、しかも小柄な方である伊東がそれをこなせるのか、どう考えても不安が残る。

 ここは上は下地にまかせるとして、伊東と私が変わって私が下地を支える事にした方が懸命だろう。

「待ってくれ、ここは私が……」

 私の申し出の途中で端で座っていた先崎がこちらまで何も言わずに向かってきた、椅子を手に取るとテーブルに椅子を乗せ、先崎はテーブルの上に乗った。

「引っ張る役は俺じゃ役不足なんだろ?」

 少しの間が空く。

「それなら俺が支えるから、早くしてくれ」

 先崎がそう言って促した。

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