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小説「実在人間、架空人間」第一話

 私は食事の途中だった。

 ワイン瓶片手に螺旋階段を上る、天井裏から下部に突出した剥き出しにされた電球、電球はだらんと垂れ下がっていてソケットに繋げられている黒いコードには付着された白いカビが、渦を巻く様に縞模様を描いている。

 真下に青く照った発光ダイオードが、舞った埃を虹色に変色させ思わずむせ返る。

 上る度に靴が木目調に錆び付いた段差とぶつかってカンッと響く音に加え、手すりを掴むとミシリときしむ2つの不協和音が耳に障る。

 脳が揺れる、ぐにゃりと景色が捻じ曲がる。

 熱く燃える様に目が、こめかみが脈打ち、心音が異常に鳴り響く。縦長の金属で猫が爪を研ぐかの様な不快な耳鳴りが続き、続いた。アルミ製の扉の前に立つと倒れる様にドアノブを捻り、僅かに開いた扉の隙間に体を捻じ込ませる。

 室内を目にした途端、視界が一気に開き覚醒する高揚感。

 耳鳴りも不自然に自然に脳から耳へ伝わる事が無くなり、足取りも軽い。飾り気の無い木製のテーブルに下の倉庫のワインセラーから持ち出した赤を置く。テーブルに無造作に置かれたソムリエナイフを手に取ると瓶の首にナイフの刃を当て半周させる。

 切り込みに刃先を滑らせ親指の腹で挟み、捻りながらキャップシールを切り離す。ナイフの腹に付いているコルクスクリューを引き起こし、上から刺してコルクに円を描きながら押し込む。

 突如轟音と共に壁が揺れた、同時に肌寒い風が室内に入り込んだ。

 閉め損ね僅かに開いた扉の隙間に風が押し出して扉が大きく開いては、さらに吹いた風で勢いよく往復するようにして閉まった様だ。

 ナイフの柄にあるフックをボトルの口に引っ掛け、テコの原理で持ち手を上に引き上げる。七分程出たコルクを手で回しながら抜き取り、そのままボトルを口につけた。

 アントシアニン、レスベラトロール、タンニン、カテキン、アルコール。

 それらが口を伝って喉を熱くさせる、そのまま胃へと向かい、体内へ。それらはやがて分解、消化される事だろう。

 椅子に座ると皿にある焦げ目の多い細切れの肉を箸で取り、頬張る。

 私は目の前にあるステンレス製のグラスを手に取ると、横に倒してテーブル上で転がしながら中を覗き込こんだ。グラスに映りこむ曲線を描き歪むぼやけた私の顔、辺りの景色と一体となって身震いする。

 先日購入したグラス、じっと曲線を楽しむ、この質素なフォルムがたまらない。

「……?」

 思わず情けない声が出る。

 いや、正確には声は出してはいない、ぐにゃりと曲がる。

 そのグラスの曲線が、景色が、渦を巻いて私へと向かって来たのだ。

 辺りが私の口内へと吸い込まれていく。

 古ぼけた淡い青のキャビネットも、木製のテーブルも、ガラス窓の付いたアルミ製の扉も、薄茶色に変色した壁紙も天井も、コルク、箸、皿、ナイフ、何もかもが質感を無くし、曲がり、うねる。それが一つの渦となって全てが入り込んでくる。

 やがて色は消え、音も消え、真っ白な世界が広がった。

 背もたれを無くした体は後ろに倒れ、地面があれば腰から着地するはずだったが、その間もなく意識が遠のいていく。































『実在人間、架空人間』































 白が見えた。

 勿論色の事だ、天井だった。

 というより、目を閉じていた感覚さえ無いので正確にはいきなり白い天井が目に映った。

 私は車で書斎代わりにしている母の家へ向かっていたはずだったが、気付けばここで横たわっている。田舎で精肉店を営んでいた母に育てられた私は現在都内で暮らしている、兄弟はいない、父は私が生まれる前に死んだ。

 1日に10万回拍動し、様々な要因によって血管の内側が狭くなり、血液が不足する心臓。

 心筋梗塞、それが父の死因だと聞かされた。

 進学の為の上京だったが、小説家になる夢がどうしても捨て切れず、ろくに勉強もせず毎日書いた。

 貯えが無かった私は、母が事故で亡くなってから実家の精肉店で生計を立てていたが運よく執筆活動が幸か不幸か生活を安定させてくれた。今になって母に恩返しできないのが悔やまれる。

 都内から車で三時間。

 道中小説のネタにでもなればと向かったが、しかし、

 しかし、田舎道の山間がいきなり白い天井である。

 車道に放り出された訳でも無ければ怪我も無い、痛みも無く、手足、体も動く。立ち上がり見渡せば目に映るのは辺り一面『白』、歩いてさらに見回す。

 四角く広がる部屋の直径は目測で10m程、天井までは4mあるかどうかといったぐらいか。部屋の真ん中には大きな白い円卓があり、そのテーブルを囲むように背もたれの付いた飾りの無い簡素な、これもまた白い椅子が九脚並べられている。

 壁の角には、成人男性が三人、全身を映りこめる程の白い外枠にはめ込まれた巨大な鏡が一枚壁に立て掛けてあり、鏡を越えた上部の壁には白い箱型のデジタル時計が壁から前方に突き出す様に設置されている。

 幅は鏡と合わせられていて天井まで伸びている、現在00:00。

 時刻を示す色も白で統一されているが、光が放つ淡い数字は、壁や箱の濃い白色と混ざる事も無く白のグラデーションとなってしっかりと遠くからでも視認する事ができた。

 意識もはっきりとしていて重力も感じられるので、何らかの事故で息絶え、死後の世界に辿り着いたという訳でも無さそうだが、窓も無ければ照明器具すら見当たらないこの部屋の視界は良好だ。

 この明るさはどこからか光が部屋を照らしている事を証明している。

 が、何かがおかしい。

 テーブルや椅子は見るからに人為的に作られている、恐らく木材を白く塗装した物だ。

 この部屋は白いクロスが張られていると、壁や天井を見て判断が付くし角もしっかりと分かる。

 物の質感や、近寄れば僅かな凹凸が確認できる。凹凸が視認できるという事は影があるという事、しかし、私に影は無い、自身に影が存在しない。さらには、鏡の前に立つと自分の姿が映らない、部屋はしっかりと映り込んでいるが自身がそこに映りこむ事が無い。

 太陽や電灯等の光源がある事で光を発しない物体の表面に四方八方に跳ね返り、その跳ね返った光が目に入る事で初めて物体を見る事ができる。

 レーザーポインタ等で暗闇を照らせば、光は直進して何かに当たる、鏡に当たれば反射し、反射した光も直進していて、入射角、反射角を変える事で方向が変わるが曲線を描く事は無い、これを光の直進性という。

 自分の姿が鏡で見れるのは、経路上で光の向きを反対にする事で来た経路を戻る事を意味する、光の進み方は可逆的であり、これを光の逆進性という。

 しかし、光を反射するのは鏡だけでは無く、あらゆる物体を反射していて、例えばこの部屋の白い壁紙はほぼ全ての光を反射する、が、鏡のように物体が映る事は無い。

 壁紙の表面には小さな凹凸があり、ここに光が当たる事で乱反射して光が幾重にも重なる為、鏡の様に物体が映りこまないのだ。

 歩き回れば必ず何処かに影が現れるはずだ、手で覆えばそこに影が現れるはずだ、だが、私の影は何処にも存在しない、光の法則性に反している、室内の明るさはごく一般的な電灯を使用している部屋の明るさであるにも関わらずだ。

 試しに鏡を少し揺らして見る、映りこむはずの物をそこに立体的に描いてあるだけかも知れない、だが鏡はしっかりと物を捕らえていた、絵が揺れる事は無かった。角や凹凸、質感が視認できるという非現実が、この部屋で共存していて何も説明が付かない。

 夢でも見ているのかも知れない。

 しかし、ここまで意識がはっきりとする事などあるのだろうか。

 夢ならばぼやけた曖昧な感覚、もしくは意図しない展開を自身の視点で傍観する事が多いはずだ。手に取れたとして感覚もあったとして、漠然とただそこにあるという感覚がここに無い、しっかりとした認識もあり、ここは写実的であると言える状態が私にある。

 だとすればここは一体何なのか、やはり死後の世界で、私は……。

「ひい、らぎ、さん?……柊さん、柊さんですよね?」

 離れた位置、背後から声が聞こえた、同時にこちらに駆け寄る足音も聞こえた、多少驚きはしたが声から誰かは予想が付いた、振り返りその声の主を確認する。

「伊東です、あなたの担当の」

 名は唯可、女性。

 IB書房出版社の編集部所属。

 私の書いた原稿を印刷所に製本を依頼したり、形になる際に宣伝用のコピー、売る為の戦略、果てはストーリーの考察まで幅広くサポートしてくれる。

「……何故君がここに?」

「ここは一体、何処なんですか?」

 彼女が辺りを見回す。

 信じられないといった様子だ。

「私は君より先にここに着いたが、私もここが何処かは分からない」

 私はこれから話す事をためらい思わずため息が出る、実にくだらないが、そのくだらなさが現実であるからだ。

「足元を見て」

 下を向き、左に首を捻り、次に右に、彼女はまるで自分の尻尾を追い回す犬かのように後ろを回るようにして足元を見た。

 私の方にきびすを返し、首を傾げる。

「足元、ですか?……何も無いようですけど」

「そうだ、影が無いんだ」

 ああーと声をあげて再度足元を見て、やはり首を傾げた。毎度の事ながら彼女の動きは何と言うか落ち着きが無い、アクションがオーバーだ。そんな彼女を見てこれは現実であり、ここは実在するんだなと考えさせられた。

「考えるのも馬鹿らしいが」

 まじまじと足元を確認する彼女に、私はさらに続けた。

「ここに着く直前でさえ急で、実家に向かっていたら何の脈絡も無くここで横になっていたし」

 彼女が怪訝けげんな表情を浮かべた、ように感じた、構わず続けた。

「車に乗っているはずの私が、ぱっと画面が切り替わる様に……」

 私はそこでいぶかしげな彼女に違和感を覚えて口をつぐみ、

「……君は違うのか?」

 と続けた。

「……私は、私は家の物全部が口の中に吸い込まれていって、この部屋に変わりましたよ」

「……」

「見てるものが全部ぐるぐる回ってどんどん吸い込まれたんですよ、私の口の中に。掃除機で吸ったみたいな感じで回りが消えていって、徐々にこの部屋が見えたんですよね」

 何という事だ、馬鹿馬鹿しい。

「…とても信じ難いが、吸い込まれたという事は自分の意思では無いんだな」

 間の抜けた質問、言った直後に右手で思わず口を覆ってしまう。

「違いますよ、そんな事できる訳無いじゃないですか」

 当たり前だ。

 彼女の言う通り、私はどうかしている。

 ここが現実世界であれば口の中に吸い込まれたなんて話、間違い無く信じない、信じないが、この状況で嘘を言っているとは思えず、彼女もこんなくだらない事を言うタイプでも無いし、私の間の抜けた質問にもしっかりと答えている。

 それをさも当然という言い回しでも無く、有り得ない事だという口ぶりで説明している。

「その話が本当だとしても、いや、もう現実かも分からないが…」

 互いに少しの沈黙、考えがまとまらない。

 ただ、乱雑された思考を放棄して突っ立っている自身を客観視する冷静さはあった。何となく右上に持っていった視点、デジタル時計が目に入った、現時刻は変わらず00:00を表示していた。

「柊さん、一つお聞きしたい事があるんですけど…」

 口火を切ったのは彼女だった。

「何だ?」

「その…」

 突然辺りの気配が変わる、空気が変わったというか、妙な圧迫感を覚える。

 彼女もそれを察したらしく、視線が私の後方へ向いた。

 私もそれに合わせて首、そして胴体と順に左に回し背後を確認する。

「……!」

 息がかかる程の距離に複数の人の姿があった。

 思わずたじろみ、足がもつれ後ろへつんのめる。躓く事は無かったが、体勢を整えるのに時間がかかった。

「何や、ここは」

 眼鏡をかけた癖毛の青年が誰に言うでも無く呟いた。

 他は皆、驚きの表情でその場に立っている。

 目の焦点を合わせる為だろうか、彼の癖だろうか、関西弁の男は自身がかけている丸眼鏡のレンズ回りのフレームを左手で掴み、クイッっと5ミリ程度上部に上げる、そこから眼鏡中央にあるブリッジを中指で押し上げた。

 猫背が嫌に目立つ男だ。

 肌も異様に白く、普段から日を浴びていない事が想像できた。

 しかし、薄茶色のトレンチコート、中のトップスは薄い青のニット、黒目のスキニージーンズを着用し、靴は淡いアイボリー色のスニーカーを履いている。

 ただ生まれ持って肌が白いのか定かでは無いが、この出で立ちからするに、ここに現れるまでは外で過ごしていたと考えさせられた、常に部屋にこもっている訳でも無いのかもしれない。

 さらに左右に二人の男女。

 私から見て左に居る男は、男性というより男の子だった。

 まだ未成年だろうか、170cmある私から見ても相当に身長に差を感じる、肩よりも下であまりに低身長である。年の頃は10歳にも満たないかもしれない、紫のキャスケットを被っており、身長差と深めに被る帽子と相まって鼻先より上が視認できない。

 顔を確認しようと、目線を落として左に右に顔を振ってまじまじと帽子の少年を見ていると、

「……何見てんの、うっとおしいんだけど」

 と、少年。

 私は思わず笑ってしまった。

「あ、いや、ごめんな」

 私の笑いにますます不機嫌になるのが見えた。

 しかし、これだけ深く帽子を被っているのに、この子からは私の視線は感じ取れるようだ。

 そこで右の女が口を開いた。

「ここは何処?」

 この第一声、皆が思う事だろう。

「わからない」

 私は答え、さらに続けた。

「わからないが、私達二人はあなた達より先にここに来た」

 女は少し苛立った様子で、右足で小さく上下にリズムを取る。かかとが地面に付くのか、時折カッっと、室内に響く。甲は覆われていて、つま先の部分だけが開いた黒いブーティ、足の爪はマニキュアで赤く塗られている。

「あら、そう」

 と、女。

 ほうれい線のシワが目立つ黒のロングヘアー、見た所40代後半。

 手には小ぶりな茶色のショルダーバッグが握られている。白の強いアイボリー気味のロングカーディガン、中は恐らく黒のキャミソールか、淡い青のジーンズ生地のイージーパンツはハイウェストで履いていて、左側面にラベルの付いたリブ編みされた鈍い青のニット帽は上部が突出している。

 前触れ無く女は手に持つ鞄からスマートフォンを取り出した。

「電話は繋がるみたいね」

 そう言って、こちらにはまったく興味が無いといった様子で何処かにかけ始めた、我関せず堂々としていて冷静、それがこの女の印象。

 何度か女がかけ直していて皆は終始無言で女を見ている。

「駄目だわ、警察にかけてみたけど繋がった途端切れるわね」

 この短い時間、この状況下でまったく慌てる様子も無く整然と110番する女。

 冷静を通り越えて奇妙、敵に回すと厄介だなと想像してしまう。現時点でこの中のリーダーはこの女になっているといってもいい、そんな気配と空気、人を掌握する何かを持っている、異様だ。

「……ネットは繋がるんか?」

 そう言って男は左中指で自身の眼鏡のブリッジに触れる。

「無理ね、メールすら確認できないわ」

 インターネットであったり、電話をかけるといった共通の言語、言葉が通用する。それは彼ら、彼女らが同じ世界にいる事を証明している、国は少なくとも日本。

「君らは何処から来たんだ?」

 私の一番の疑問を投げかけた、唐突に。

 伊東の事はわかるが、彼らは誰なのか急に怖くなる、不気味になったのだ、今のやり取りで。

 冷静な女、突如現れた三人、伊東を含めて怖い。

 薄ら怖い。

「何処言われてもなぁ」

 少し間を空けてから躊躇ためらいがちに、

「別に信じんでもええけど」

 と、語り始めた。

「映画見てたんや、一人で。最近公開してるやつで、その日は誰誘っても来えへんかったから」

 映画。

 やはり、異次元から来た何かでは無いらしい、共通言語が全て合う。

「その映画は何てタイトルだ?」

 少し間が空いて、

「そんなん聞いてどうすんねん、まあええわ、これや」

 男が一枚の紙をコートの右ポケットから取り出し、目の前で広げ、親指と人差し指の二本で上部中央を挟み、垂らす様にして私に見せた。

「あっ……」

 思わず声が出た、タイトルに見覚えがあったからだ。

「何驚いてんねんお前」

「あ、いや、その映画知ってるなぁ、ってね」

 適当に返答した私に「ひょっとしてやばい人?」と聞かれたが、それには答えなかった。

 しかし、これで私と同じ時間軸から来ている事が想定できる。

 時間、それは常に流れ、ここに辿り着くまでにも流れている。彼と私とのここへ飛ばされた時間差は何を意味するのか、一つ確認したい事がある、それを彼にぶつけてみた。

「映画を見ていたら気付けばここに居たとか、そんな事言うんじゃないだろうな」

「そうや、その通り、お前も似た感じで此処ここに来たか?」

 どう答えたら良いかとその質問に対して妙な不安を感じる、記憶が曖昧になっているような気がした。

「とにかくただ映画見てただけやね」

 返答に困っていると彼はそう続けた。

 視界に入ったデジタル時計は変わらず00:00、体感ではもう数十分は経過しているはずだが、ただ故障しているのか、ここでは時間の概念が無いのか、そもそもあれは時計では無いのか。

 だとすれば一体あれは何を示しているのだろうか。

「柊さん!」

 背後から唯可の私を呼ぶ声が聞こえた。

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