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小説「実在人間、架空人間」第十一話

 小気味いい駆け足が近寄ってくる。

 地面を踏む音は、みしり、と枝を折る音と、ざっ、と砂を踏む音とが相まって和音のように辺りに響いた。

 背後からという認識が徐々に明確になった、皆が足を止め、その音に集中する。音に対しての緊張というよりも、白い部屋から来ていると予想がついた。背後を確認するとキャスケットが頭を揺らして近づいてくるのが目で捉えれた。

 聖騎だ。

「お、聖騎くんやん」

 部屋からたいして距離が離れていないので、すぐに追いつかれた。そして息つく間もなく私達を悠々と追い抜いていく。

「ちょ、ちょっと、どこいくねーん」

 松葉の声は聞こえているはずだが、その言葉に見向きもしない。

 私も続けて声をかけた。

「それ以上は危険だ、先に何があるかわからないぞ」

 声だけが残されて、聖騎は勢いを増してさらに走る速度を上げていく、どうやら言葉は届いているようだった。

「もう放っておきましょう、あの子を止める権利は私達には無いわ」

 そうなのかもしれない、に集められたのは私達の意思ではない以上、彼を止める権利は存在しない。しかし、彼はまだこの危険性を十分に理解出来ていない。理解出来ればこのような単独での行動は控えるはずだが、これを理解させるには時間の共有、つまりは対話が必要だ。

 各々の判断、主観によってこの空間から出る事は共通する集団意識に他ならない。それは個人の意識による統合だ、彼の行動はその最短を走っている。彼は今、私達の中でも最短の行動によって開放を望んでいる。自由の渇望、不安を払拭する唯一の行動、それは思考停止からくる衝動そのものだ。駆け足はどんどん遠のいていく、手で伸びた雑草を掻き分けながらキャスケットは森深くへと吸い込まれていく。

 音が止んだ。キャスケットが下に引っ張られるようにして吸い込まれる、と同時に悲鳴があがる、聖騎の悲鳴のようだった。

 皆が皆と視線を合わせる、目くばせの視線のやり取り、先で何かあったと考え、同時に慎重さにも繋がった、落下したように見えた為だ。

「聖騎くん!」

 松葉が走る動作を見せ、少し駆け足を見せてから歩幅を短くさせていく。私もそれに続き、ガク、ハクもそれに続いた。女はゆっくりと歩いている、恐らくは先に道が無いことを皆は予想できた。

 松葉は腰まで伸びた雑草をゆっくりと両手で泳ぐようにして左右に倒して進んで行く、皆もそれに続いた。数歩さらに歩いて松葉の足が完全に止まった、どうやら崖まで辿り着いたようだ。

 突風。

 寒気と共に風が包んでくる、松葉に追いついた私に嫌にきつい風が前髪をなびかせる。ゆっくりと視線を落とすと底の見えない深い闇が広がっていた、思わず上半身が仰け反ってしまう。

「聖騎、聖騎くん!」

 松葉が底の暗闇に呼びかけるようにして叫んだ。崖下の黒い世界、底からの返事は無かった。風が吹く音だけがそれが答えであるかのように返答する。

 皆は終始無言で体を硬直させるようにして立ち尽くした、女もあとに続いてこちらに歩み寄って一言放った。

「……落ちたのね」

 その言葉は実にあっさりとしているようで女もショックを隠し切れない様子だ。言葉を放っているようである意味では無言に近い虚無、そのように感じさせられた。

 これは二つの不安を意味している、聖騎が崖から落ちたという事実と自身がこの場所から抜け出せないかもしれないという意識、その意識が不安となって声の抑揚の無い虚無を感じさせる発言となっている。

 その言葉に引っ張られるように、

「……俺行ってくるわ」

 と松葉が言った。

「ちょっと、どういうこと?」

「行くんよ、崖下に」

 女の表情がこわばっていく。

「……あんた、何言ってるの?」

「聖騎くんがまだ下にひっかかってるかもしれんやろ」

「はあ!?」

 女が声を荒げた。

「あんたさ、いい加減にしなさいよ、そんなことしてあんたまで落ちたら何にもならないわよ」

「知らん、そんなん知らん、どうでもええ」

 松葉はゆっくりと屈み、尻をつけてじわりと地面を擦らせるよにして前に進み、両足を崖に垂らした。

 女は松葉の片腕を掴んで叫んだ。

「ふざけんじゃないわよ!」

 私も続いて松葉の片腕を掴む。

「やめた方が良い」

「うるさいねん、俺がやりたいからしてるだけや、お前らに関係ないやろ」

「違う、やるなとは言わない、もう少し考えてから行動するべきだ」

 私は思わず声が裏返った。

 純粋過ぎる松葉の行動や言動に妙な気持ちが走った、ここまで他人に対して行動できる者など存在するとは思わなかった為だ。何が彼をそうさせているのか、もはや理屈ではない。意外性と妙な心地よさが同時に溢れてくる、不安な状況も相まって声が震える、松葉の感情にただただ圧倒された。

 咄嗟とっさに声が出た。

「皆、上着を脱いで」

 それはただの思い付きだった、皆にうながした。

「上着をひとつひとつ縛ってロープにしよう、それを私の腰に巻いてくれ、崖下には私が行くから」

 皆は少しの間を置いて、上着を脱いだ。ガクとハクはどうしようかと考えている、上着を着用していない為だ。

 三着でいい、いくら距離が多少伸びても現状目で視認出来ないのだから恐らくは無駄に終わる。そんな理屈など今は必要ではない、とにかく行動しなければこの状況を良い方向へと持っていくことは出来ない。安心を持つのが最優先と考えた、これは自身の感情の話でもある、勿論計算ではない、無意識によるものだ。松葉の直情的な感情に引っ張られた、思わず出た提案を言った矢先にその状況を把握しただけだ。

「ガクとハクはそのままでいい」

 そう伝えてその場を取りつくろった。

 ガクとハクは納得したような、それでいて不安で不満な様子でその場で考えるようにゆっくりと屈んで崖下を覗き込んだ。

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