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小説「実在人間、架空人間」第十二話

 松葉が脱いだトレンチコート、女のロングカーディガン、そして私が着用していたジャケット、これらの両腕部分は脇の部分が弱いので必要無い。一着一着邪魔にならない程度に一度ぎゅっと締めるように腕をクロスさせ全体を絞る、そうしてから両腕部分を固く結んだ、こうすることで多少の強度に繋がるだろう。

 勿論気休め程度でしかないが、なるべく全体を絞ってまとめて太いロープのような形状にしてしまおうと判断した。そのロープのようなものを完成させ、どう繋げてこれをどう体に巻き付けようかと考えていると、女が唐突に話しかけてきた。

「私がやるわ」

 意外な言葉だった。

「どうして君が?」

 思わず疑問符を投げかけてしまった。

 今までは人を寄せ付けない言動であったり、行動が見られたが、この発言は一体何を意味するのか。

「ここでは私が一番の年寄りよ、若いあなた達が犠牲を払うことないのよ」

 またしても意外な言葉だった。

「いや、それは……」

 女は私の言葉をさえぎるようにして地面に置いておいた二着の衣類を奪うようにして拾いあげると、トレンチコートだったそれとロングカーディガンだったそれを結んで繋げた。私はただぼーっとその作業を眺めた。

「それも貸しなさい」

 女が私の目を見ながらうなずくように首を前後に軽く3回程下げ、私の手に持っているジャケットを渡せと促してくる。

 自身が年配者であるというような言い分によって彼女自身が崖下に向かう理由はまったく無い。それに見たところ年寄りと呼べる程の年齢でも無いはずだ。ではこれが何を意味するのかといえば、これは自身を卑下ひげして皆に共感を促し、行動を正当化させる自己犠牲そのものだ。

 松葉の唐突な行動によって全員が彼の感情に引っ張られた。

 誰ひとりとして放っておこうという意識が無い、全員が全員、ガクもハクも女も私も、松葉の自己犠牲の心理に支配された。それが集団意識となって統合され、この場では一番正しいことであるという状況へと変化する。この流れはもう誰にも止めることはできない、誰が犠牲を払うのか、それのみがここを支配している。

「早く貸しなさい」

 そう言って女は私からジャケットを奪い、繋げて結んだ。そこから自身の両足に結び、うつ伏せの姿勢を取る。

「しっかり持ってて」

 女の意外な言動と行動によって呆気あっけに取られたのは私だけではないようだ、誰一人としてこの行動を制止する者は居なかった。その不自然さが自然に彼女の行動を肯定する流れになった、彼女にたくす形となった。

 皆がロープになったそれを掴む。

 女が両手で地面を掴むようにして這いずるようにして前に進んでいく。崖から先に顔がかかった女は少し躊躇ちゅうちょする様子を見せたが、一時の間を置いて意を決するようにして一気に半身を乗り出した。

 少しずつ上半身が底の黒い景色に入り込む、足に巻かれた衣類がピンと張った。そうして全身を崖下に滑り込ませていった。

 直後に私は尻餅をついた。

 手に伝わっていた重みが一瞬にして開放される。

 緊迫した空気が風の音と共に皆を包む。慌てて衣類を引っ張りあげると私のジャケットが見当たらない、女の足も、上半身も、ロングカーディガンも、彼女の全てが消えて無くなった。

 なんでや!と叫んで松葉が慌てて崖下を覗き込む。

「……引き上げて、下さい」

 女の声が聞こえた。

 松葉がどうやら女の足を掴んだようだった。私も続いて半身を乗り出して逆さになっている女の足首を掴んだ。二人で慎重に引きあげていく。

「大丈夫なんか!?」

「…大丈夫です、段差に落ちただけですから、ゆっくり、引き上げて下さい」

 夢中で引っ張りながら女の言葉の物越しの柔らかさに違和感を覚える。

 段差に手をついて丁度逆立ちのような体勢になっているようだ。体を引きづられて擦れて痛いのか、上に引き上げるたびに女が、いたっ、痛いっ、と声を上げる。

 足全体が崖上に乗ったと同時に、ガクとハクが女の左右の肩から腕にかけて抱えるようにして支える。もう一度力を込めて引っ張り、女を完全に引き上げた、崖上に全身が乗った。

「……ありがとうございます、皆さん、助かりました」

 そこまで体力は使わなかったが、私は女が崖から落ちたのではという焦りの中での引き上げによる疲れと、女の丁寧な口調に妙な汗が吹き出た。

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