日本人にポリコレが響かないのは何故?
ポリコレと言っても人種に関するものと性に関するものがある。一応、最後に少しだけLGBTについて触れるが、この記事では主に人種に関することを書いた。
人種のポリコレ
映画、ドラマ、ゲーム、アニメ、漫画等の創作に関連して最近よく聞く言葉が「ポリコレ」だ。日本のゲームに関するポリコレがよく論じられているのは、それだけ世界中の人々に親しまれているからだ。
ここで、「世界の価値観に合わせよう」とするか「日本のゲームには日本独自の世界観がある」と姿勢を崩さないかは意見が分かれるところ。まぁ、極端にならずに世界観を崩さないで合わせられるところだけ合わせばいいんだろうけど。なんとも事なかれ主義的な意見なんですけどね。
ポリコレ棒を振る悪魔
ポリコレは主に有色人種に適応されている。理由は簡単、差別されていたからだ。何というか懺悔する白人とそれに乗っかる有色人種に付き合わされているような気もしなくはない。
正直、日本人である俺からしても世界観を潰してまでアジア人をキャスティングして欲しくはない。クレオパトラやアリエルが黒人になってしまったのも記憶に新しい。もしかして「ヘイトを稼ぐ為にやっているのか」と邪推してしまう。もし俺が人種間の対立を煽る悪魔ならそうするからだ。
世界ってどこ?
そもそも「世界の価値観に合わせよう」の「世界」とはどこか。この疑問を考えるにはポリコレが発生した流れから考える必要があるだろう。そして、その為にはありとあらゆる社会に存在する「差別」について考える必要がある。
差別の存在する理由としては、社会というのは階級という構造によって「下」を作る事で全体をコントロールしている側面があるからだ。正当化するつもりはないが、それが社会を長く存続させるのかもしれない。では、「差別」と「人種」が結びつく条件とは何なのか。まず、単一民族国家から考えてみる。
日本社会の差別
大前提としてどの国にも「差別」は存在する。耳が痛いかもしれないが日本のような単一民族国家にも当てはまる。
日本にもアジア人同士の中での差別はある。しかし、人種差別というよりは国籍差別という感じだ。「人種として知能が〜」とかそう言った類のものではない。大陸から高度な文明が齎されまくっているので下に見るのは無理がある。
未だに中韓の人々に差別的発言をする人はどうかと思うが、実際そういった歴史はある。中国やロシアに戦争で勝ってイケイケだった名残なんだろうなと思う。戦争のプロパガンダは脅威的だ。
また、被差別階級というのもある。というか、こっちの方が根深い。単一民族でも差別の構造を捻り出すのだ。同じ人種どころか同じ民族なのに。
偶に見かける「日本に人種差別はない」というのは、100%ではないが間違ってはいない。先程の通り、国籍差別という感じのほうがしっくりくる(言葉遊びじゃないか!と怒られそうだけど)。
単一民族国家では、他の人種を差別する社会的な背景が作られない。不在の人種に対してどうすれば差別的感情を持つことができるのだろうか。差別は社会構造の産物なのだ。
アメリカ社会の差別
では、ポリコレのオリジネーターたるアメリカにおける差別とは何だ。それこそ「人種差別」だ。日本とは違い、アメリカでは人種と階級の関係が深い。黒人が奴隷として連れて来られた時点で人種差別の存在する社会になる事は決まっていた。また、奴隷から成り上がり金持ちになった黒人に対しても差別意識はなくならなかった。慣習は引き摺られるのだ。
黒人だけでなく、他の有色人種も対等には扱われなかった。勿論、戦争や社会問題などが他の人種に対するヘイトを増幅させ、ヘイトを持つ事を正当化させたが為に差別的感情を持った人々がおり、また彼らも踊らされているという側面も否定はできない。
もし、日本でも特定の人種が犯罪などで悪目立ちするような事が当たり前になれば簡単に人種差別に繋がるだろう(差別される立場に追いやられる人々の苦悩を理解すれば避けられそうだが、そこまでモラルの高い国はこの世に存在しないだろう)。
リアルタイムの人々は人種差別とすら認識していない、もしくはそれらの差別的思考は正当な理由があると信じているだろう。
結論
結論としては「人種差別」は多人種社会特有の問題なので、その解決の為の運動である「ポリコレ」を関係の無い国に押し付けるのは違うんじゃないかと思う。押し付けられている感があるが故に響かない。
むしろ自分達の社会問題をよその国に押し付ける態度こそが驕りであり、他の国の社会を軽視しているのではないか。つまりそれは人種差別的な思考に繋がるのではないだろうか。
余談、LGBTのポリコレ
そもそも日本は男色という文化があった。勿論、男色も女色も男性主体の概念であるという点では男尊女卑の側面も否定出来ないが、注目すべきは同性愛が文化として当たり前のようにあったという点だ。1682年に刊行された井原西鶴の「好色一代男」の主人公である世之介は女性3742人、男性725人と関係を持ったという。
そもそも「私は異性愛者です」とか「私は同性愛者です」といった風に自分を定義付けてしまうのが西洋的な物事の捉え方なのではないだろうか。定義付けるからこそ対立的になってしまうと考える俺としては、わざわざ定義付けない昔の日本の性の捉え方の方が先進的に感じる。枠組みを作って地位を引き上げる運動をするのではなく、枠組みを設けないという考え方が過去にはあったのかもしれない。そういう点では日本は後退したのかもしれない。
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