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さみしさを感じた時にどうするか
連想ゲームふう作文企画「杣道(そまみち)」。 週替わりのリレー形式で文章を執筆します。
10周目の執筆ルールは以下のものです。
[1] 前の人の原稿からうけたインスピレーションで、
[2]"さみしいときどうしているか" について書く
【杣道に関して】https://note.com/somamichi_center
【前回の杣道】
https://note.com/tttttt_ttt/n/n0612c9812fc4
この一週間頭がぼーっとして、オブラートに包まれたみたいに思考停止してた。
今日は、脳が動いてる感覚がある。やっと脳みそが地上に降り立った。
現実を歩き出した。脳みそが回転するってすごく気持ちが良い。
やっと少しは書けるかもしれない。
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結論から言うと、さみしさは消せない。
他の「何か(=もの、こと、ひと)」で
いっぱいに頭を埋めることで
さみしさを少しずつ薄めるしかないんじゃないかと思った。
私の場合、頭の中を埋めるものは
とにかく「ひと」である。
「ひと」はつねに変化するから、一定でない関係性だ。
関係性は揺らぐ、
良いときも割れば悪い時もある。とても不安定だ。
でもそれでもやっぱり、
「ひと」でしか心が埋まらない。
何かやりたい「こと」でさえ誰かの形跡を感じなければ、続けられない寂しい人間だ。
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”さみしさ”を感じた時にスマホを開くのではないだろうか。
眠れない夜の明け方4時や、
帰宅ラッシュ最中の新宿駅のホームで。
無意識的に、
スマホの明かりが目に飛び込ませるのは自分だ。
まず写真フォルダをタップする。
いろいろな記憶の断片が脳内に蘇る。
昨日食べた正直微妙だった食事や、
3年前に海辺で見た夕焼けの光景まで溢れ出す。
きっと写真を撮影しなければ
思い出すことすらなかった思い出がたくさん存在する。
私はなぜ写真を残したがるんだろうか?
息をするように写真を撮るということ。
きっと、それは忘れたくないから
寂しい瞬間に、こんな楽しい経験があったのだと
ひとり思い出したいからだ。
ある出来事が写真になってしまえば
記憶は限られた思い出に変化し、
切り取られて編集された一部分しか残らないけれど。
わたしは
「忘れていく」ことがとても、「さみしい」のかもしれない。
どうしても忘れてしまうことを認めざるを得ない自分がいて、
それでも、忘れたくないなと感じるとき
その瞬間にシャッターを切るのではないか?
撮ることで、少しは記憶に残った気持ちになって
流れる日々の掴めない時間の中で
ちょっとだけ安心を買ってるのだと思う。
スマホの写真は
簡単に人との思い出を持ち運べる。
だけど最近、実験的に試してみたことがある。
写真を現像して
出会った友達の写真を並べて
アルバムを作ってみたりした。
どんどん日常がアナログ化してくる。
友達の写真の貼られたアルバムを
カバンに入れて持ち歩いてみたら
お守りみたいな不思議な感覚になった。
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何も考えていない頭で
流れるように指が勝手にSNSのアプリをひらく。
FacebookやInstagramをただ、ぼうっとパトロールする。
友人のストーリーが流れてくることに、少しだけ安心する。
会わないけど、会うまではいかないけど
友人にも今日が流れていることを確認する。
この文章を書いている中で、中学生の頃聴いてた歌を思い出した。
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ポッケに人間関係を携帯しているというわけだ。
本当にその通りだと思う。
また繰り返すようにLINEのアプリを開く。
未読のトーク履歴を見る。
眺めるだけで”今生きてる世界”を感じる。
何気なく「友達リスト」を見る。
ずっと連絡してない友達がいる。
誰だかよくわからない友達がいる。
気まずい別れをした友達がいる。
ただそこに名前があるだけで、
存在なんてしない繋がりを確認する。
友人の形跡を見ると、自分もこの世界に存在する
ひとりの人間だということが、寂しさの中でまじまじと認識される。
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常に人間でいる限り寂しいから。
ひとりぼっちだから。
探してるものはきっとスマホの中にないのに。
見ても何も心は満たされないのに、
ただ人の形跡を感じたくて見てしまう。
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浪人時代、進路が未確定だった頃
自己紹介ができなくなってしまった。
「自己紹介のしにくさ」から
人との交流が途絶えた。
社会的孤立から闇を抱えた。
人との交流が途絶えてしまうのは
こういう何気ない部分がきっかけになる。
「何者でもない自分」に憧れがあったにもかかわらず、
それでは立ち行かなかった。だめだった。
「履歴書に空白がある」から
「人からどうみられるのか怖い」
「説明するのが億劫な部分」が存在して
新しく面接を受けることが
むずかしくなってしまうことにも似ている。
その結果長年の引きこもりにつながったりするんだ。
「かたちあるもの」にとらわれすぎて
目の前の「そのひと」を見れない社会の壁は厚い。
周りの人を見て自分を認識できる。
社会的接点がなくなれば、自分がわからなくなる。
人生で一度でも孤独を感じた期間がある人は、
なんだかわからないけどすごく味が出ている気がする。
他人への理解力も上がるし、優しくなれる。
さみしさは、
わたしのように「ひと」で埋める人もいれば
打ち込みたい「こと」で己の寂しさを満たす人もいるだろう。
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寂しさ(孤独)を知ってる人は良いよ。
友達は本を読むきっかけになったって言ってたし。
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