世界は一つじゃない。不思議の国の物語〜2020カヌーシーズンを終えて〜
2020年春のネビラキのカヌーツアーが終わってからもうすでに1ヶ月近くが経ってしまったが、自分が体験した春の一瞬の煌めきと不思議の国に迷い込んでしまったかのような、もしくは狐につままれたような後味を少し言語化してみる。
本当に伝えたいことは何か
そういえば思い出してみると、今年の2月くらいから国内ではコロナウイルスに対して騒ぎ始め、3月には感染者が爆発的に増えてきて、国内の観光事業者や宿泊事業者は自分たちの事業をどうするかを問われ、我々としても判断を出すことにしました。
カヌーが三密に該当するかどうかは置いておいて、やはり人々の移動を助長してしまう業種のため、自粛を決定しました。人が来られないならオンラインでの体験ができないかも検討し、アクションカメラを買ってみたりしましたが、youtubeにクオリティの高い動画がゴロゴロしている中、我々のカヌーツアーを伝えるのは困難でした。
360度カメラが付きのアクションカメラを購入し、録画したのを指でグリグリして見ていただくことにした。ライブ配信も検討したが、電波の環境をクリアできなかったことと、カメラワークの難しさから断念することにした。
でもこれが意外と評判良かったり。
ときには一人でカヌーに乗ってカメラを回すこともありました。錦秋湖の水が雪解け水で満水になって、葉っぱが一つも出ていない状態から一日一日景色が変化していく様を捉えながら、命の素晴らしさ、季節がめぐる喜び、渡り鳥との再開、吸い込まれそうになる湖面のリフレクション、etc...。
一人で早朝カヌーで誰もいない錦秋湖に漕ぎ出し、朝日が昇る音が聞こえてきそうなとき、何度も自分の中で「伝えなきゃ」という声が鳴り響きました。輪廻のように繰り返す地球のリズム、「生きる」ってこんなに素晴らしいってこと。カヌーに乗りながら自分との対話を繰り返す中で、自分が幼い頃に体験した朝の魔法のような時間を何度も思い出し、そのたびに全身がフワフワ浮くような幸福感に包まれます。
素晴らしき緑の星の魅力を伝えなきゃ。
コロナで行動が制限される中、多くの人がそうだったように、「自分が本当にやりたいこと・伝えたいこと」を何度も反芻しました。
「今日地球が終わるとしたらあなたは何をしますか?」
自分の中で出た答えは「この美しき緑の星の素晴らしさを、愛すべき西和賀の訴えかけてくる本質的な部分を伝える」ということです。
人間としての初期設定
岩手県内での感染者が全く出ておらず、東北でも感染者が減っている中、GW明けからネビラキでも県内の方を限定にツアーを再開することにしました。今年は雪が少ないのに加え、ボートの高校総体がないからいつもより水位を下げる時期が早いとのこと。日々目減りする錦秋湖の水位と、日に日に緑が濃くなっていく山々の感じにしっかりと目を開けて見聞きしていないと夏になってしまいます。
こういうご時世だから人もあまり来ないだろうと思っていたら、夢見るピノキオという番組でオンエアされたり、口コミで広がり、最後の二週間は毎日のように乗りに来る方がいました。
TripAdvisorへの口コミも何件かいただいた。
岩手県内ではコロナ感染者が出ていなかったものの、自粛ムードはそれなりに広がり、自分の町でも町外からの来客にはとてもピリピリしており、県民性も相まって「自分のところからコロナを出さない」という意識が高かったんだと思います。カヌーに乗りに来てくださったお客さんも自粛期間中はどこにも行かず家にいたという方も多く、今までのお客さんに比べ、感動の具合が大きいように感じました。「世界がこんなに素晴らしいなんて知らなかった」と。
早朝、カヌーに乗りに来てくださった方がいました。
何度も「すげー」と言ってくださり、というかそれしか言葉に出てこなかったようです。
“限りなく人間としての初期設定”最高にいい表現だ
早朝のカヌーに乗っている時間はまるで魔法のような時間で、ただ行って帰ってくるだけだと1時間もかからないのですが、なぜか倍以上の時間を過ごしていた感覚になり、船から上がるといつも不思議な気持ちになります。「あ、まだ7時か」と。
多分ですが、その要因は五感に訴えかけてくる情報量が多いのと、船の上という自由が効かない空間、朝の清々しい空気が細胞を入れ替え、集中力を高めているんだと思います。
カヌーから帰ってくると、こころなしか、皆さんの表情がとてもいいんです。
持てる者と持たざる者
ミソサザイ、サシバ、キセキレイ、キビタキ、オオルリ、トラツグミ、オシドリ、ウグイス、ホオジロ
ブナ、シロヤナギ、アカシデ、サワシバ、ヤマモミジ、イタヤカエデ、ハウチワカエデ、ホオノキ、オオバボダイジュ、ハルニレ、カツラ、、、
鳥や木の名前を毎年少しずつ覚えていくと、身近にこんなに生命があったんだと感動しました。
それらを一つ一つよく見聞きしていくと、一瞬が永遠に感じられたりするのです。
この景色が誰のものでもなく、自分が独り占めできる感覚。「所有」とは一体何か。持っていなくても持つことができる。
“所有”という言葉についてカヌーに乗りながら何度も考えました。
今自分が見ているこの景色は自分の物であり、誰のものでもない。お金で買うものでもないし、買いたいとも思わない。もっと言うと、何か見えない大きなもの。自然や地球とつながる瞬間とはこのことなんだと思います。
「おまえの目に見えるところまで、この土地はおまえのものだ。」
彼はつづける。
「使うんじゃない、覚えるんだ。だが、この丘のてっぺんは、おまえがこれから生涯使うおまえのものだ。それはおまえ自身で見つけたところだからだ。」
「ここに棲むどの虫もおまえの友達だ。おまえはそれを使うことができるし、それがおまえを使うこともできるんだ。ここがおまえの場所、自分の財産を貯める場所だ。」
「ここに染み込むまで、丘の頂上がおまえをひたすまで、ひとりで来なきゃならん。おまえがそれでいっぱいになるときときは、自分でわかるさ」
ドン・ファン
ーーーーイクストランへの旅ーーー カルロス・カスタネダ
カヌーの季節終盤で、親子連れが乗りにきてくれました。小学生からおじいちゃんおばあちゃんの団体だったので2回に分けて乗りました。
2回目の回、子どもたちと自分だけを乗せた船は廻戸川の奥に向かいます。夕方だったから鳥の声もそんなにせず、小さい子供のはしゃぐ声だけが響き渡ります。終盤、北上線の列車をみんなで見送りました。
子供と自分だけで船に乗ることはめったになかったので、一つ一つ観るものに対して驚く様は、自分も子供に帰った気持ちです。
マットとは一つの地名である。強てその地点を求むるならば、中つ国ホビット庄や少女アリスが辿った鏡の国と同じ世界の中、ユンザビット高地の遥か南東、ホグワーツ魔法学校の遠い東と考えられる。実にこれは、筆者心象中に、この様な状景をもって実在したドリームランドとしての西和賀町廻戸である。
カヌーで稼ごうとして、船を何艇も買ってこの川で漕ぎ出したらどうなるでしょうか。きっとこの世界観は生まれないでしょう。視界に誰もいない、いるのは自分たちと、自分たちの周りを包み込む自然だけ。何もいらない持たなくてもいい、そんな豊かさが自分の周りやここ廻戸、西和賀にはあるんだと思います。
最終日廻戸川を舞う柳絮でグランドフィナーレを迎え、今から来年のスプリングハイが今から待ち遠しいのです。
世界は一つじゃないし見えている世界だけが世界じゃない
zen
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