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月響(エピローグ)



私はもう少しで月の裏側という所に立っていた。


あと200メートルほど歩くと月の裏側の縁に辿り着くかな
といった地点だ。

まぁそれも目測だった。

もしかすると500メートル、いや1キロは歩かなきゃいけないかもなと
ひとりごちて、私は一歩を踏み出した。

とにかく行けばいいだけのことだった。

月の表面は白く輝いていた。

しかしあたりは見事な暗黒に包まれていて、月から白い光が放たれると
それは暗黒に吸収されてしまって光り輝くというほどには輝きは
保たれない。

私の頭の高さらへんの光はすでに鈍い輝きに変わってしまっている。

でもそれは、私の眼にはちょうどいい明るさだった。

私はふと、ナリタ君の涙の中に居た時を思い出した。

月には空気がないらしいのに、息を吸ったり吐いたりするのに
全然困らなかったから。

あそこもココみたいにちょうど良い所だったナ。

そんなコトを考えながら歩いていると、もう月の裏側のすぐ近くまで
来ていた。

月の裏側からは音がしていた。

月の裏側は真ッ暗な所だから私は少し怖い気持ちでいたのだけど、
その音を耳にしたらやっぱり行ってみたいと思って足を早めた。

音はどんどん大きくなってくる。

そんなもの見たコトないのだけど、イナゴの大群が押し寄せて来たら
ひょっとするとこんな音がするかもしれない。

音を言葉に置き換えるのって本当に難しい。

アタマをこねくりこねくりしていたら、もうそこは月の裏側との
境界だった。

月の裏側はやっぱり真ッ暗で何もない。

真ッ直ぐに歩いて来たけれど、このまま先へ行ったら奈落の底へ
落ちてしまうかもしれない。

月は丸い球体なのだと誰かが云っていたのを信じ込むことにして一歩を
踏み出す。

そこにはちゃんと地面があったし、私は月の中心から発せられている音に
魅せられているから更にもう一歩踏み出す。

一歩踏み出すごとにその音はどんどん大きくなってゆく。

すごく大きな音なのだけど鼓膜には優しく響いてくる。

目を閉じても閉じなくても関係のない真ッ暗闇の中、全ての神経を鼓膜に
集中させようとまぶたをギュッと合わせると更に前へと足を踏み出す。

イナゴの大群というのはあながち間違ってはいなかったみたいだ。

それはどうやら無数の音の集まりだった。

…何かにすごく似てる。

私は両のまぶたを閉ざす力をさらに強めて手の平と足の平をギュッと
丸める。

風が吹いて頬を撫でてゆく。

と同時に何かが聞きとれる。

ハッとして目を開くとそこには、見渡す限り満開の桜が私に向けて花びらを注いでいた。


音は人の声だった。

花びらの一枚一枚は声が姿を変えたものだった。

私はそこに仰向けになると真上から降り注ぎながら舞う淡いピンク色の花びらを眼を凝らしながら見続ける。

何を云っているのかわからない、無数の声達。

私は月に背中をあずけて、億万の声をじっと見続けていた。突然、私を呼ぶ声を見つけた。
それは大和やまとの声だった。
ヤマトなんか私は知らないのに、それがヤマトの声だってすぐに判った。
ヤマトは
「オ」
「カ」
「ア」
「チャーン」
と叫んでいた。

「ヤン坊!」

と私も答えようとする。
ヤン坊、こんなトコに居たんだ……。
するとヤマトの後ろからマー坊の声がした。

「ミツミー」

と大きな声で私を呼んでいる。
私はヤン坊がマー坊と私の一人息子、中野大和なんだって気がつく。

ヤン坊はまだ私を呼び続けている。
周囲の声もみんな、誰かが誰かを呼ぶ声だった。
私は月全体がその声で響鳴して微動しているのを大の字になって背中に感じていた。

私も月と一緒にふるえていた。
マー坊とヤン坊を想って。
この沢山の人達の愛を想って。

ふと、あの年の差カップルを思い出した。
あの夫婦もこうして月の裏側で呼び合って結ばれたのだ。
私はふふふと笑うけど、声が出せない。
私にはこの世界の声は出せないのだ。
だからマー坊やヤン坊に返事をすることができない。
帰ったらマー坊に電話しなくちゃと私は思う。
マー坊に電話して引越しを手伝うって云おう。
そして新しい中野の家にいっぱいいっぱい遊びに行こう。

私はいつまでも大の字になって月の裏側を覆いつくす満開の桜の木々に
浮かぶ一瞬一瞬を見続けている。
月のひびきを聴き続けている。



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