宗教・詩・そして決断。Emily Dickinson "LOVE'S BAPTISM."を読む

はじめに

2023年3月26日に英詩読会で発表した内容です。
当会では、毎回1人1編ずつ(現在は基本的にディキンソンの)詩を担当し、分析と翻訳を行うのですが、今回わたしはこちらの詩の担当でした。↓
Emily Dickinson – I'm ceded—I've stopped being Theirs (508) | Genius
エミリー・ディキンソン(1830-1886)の詩で、編集者は「LOVE’S BAPTISM.」というタイトルを付けています。※
日本語にすると、「愛の洗礼式」といったような意味でしょうか。baptismはキリスト教における洗礼儀式のことです。
以下が翻訳案です。(注釈にある英単語の解説は基本的にOxford Dictionary of Englishに依ります。)

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※上記で紹介したサイトでは、"THE COMPLETE POEMS OF EMILY DICKINSON"(Thomas Johnson編、1955年)という、大文字や記号がディキンソンの書いた原稿通りに再現されているバージョンに基づいて詩が掲載されていますが、英詩読会では別のテキストを使用しています。↓ Amazon | The Selected Poems of Emily Dickinson (Volume 8) (Timeless Classics, 8) | Dickinson, Emily | Love Poems こちらは、生前からディキンソンと関係の深かった人たち(メイベル・ルーミス・トッドとトーマス・ウェントワース・ヒギンソン)が編集したバージョンの詩集(第1集が1890年、第2集が1891年、第3集が1896年)に基づき編集されたものです。多くの詩にタイトルが付されているほか、当時の人々に受け入れやすいよう、あまりに文法的に破綻した表現や文法上正しくない大文字を修正してあります。 今後もこのような形式で翻訳案を投稿していく予定ですが、英詩読会で作成された翻訳案は、上記の大きく編集されたバージョンに基づいているため、所々サイトの英詩と食い違う箇所が生じるかもしれません。

翻訳案

第1スタンザ

私は譲り渡される[1]。私は彼らのものであることを止めたところだ[2]。

地方教会で、彼ら[3]が私の顔に、水とともに落とした[4]名は、

今、役目を終え、

そして彼らは私のお人形に、

私の子供時代に、そして私が今しがた巻き終えた

糸巻きの片端[5]に、同様に終わりをもたらしてよいだろう。

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[1] cede; give up (power or territory) 権力の場としての身体(私=ディキンソン自身)が(一度は幼児洗礼によって獲得した神≒キリスト教会から)諦められる、というニュアンス。

[2] 後の内容から、現在完了の完了用法と判断した。

[3] ディキンソンに幼児洗礼を施した聖職者および親族?

[4] 洗礼時に、額に水をつけることを指す。

[5] stripとなっている箇所は、Johnson版ではstring。spoolは多義語だがおそらく糸巻きのこと。人形と、子供時代と、糸巻きで巻き取った糸の片端に洗礼の水をもたらす、という表現によって、幼児洗礼を受けてから今(第2の洗礼、教会との決別をする瞬間)の間の期間を「教会に属していた期間」として切り取っている。人形→(自我がないような)幼児期、子供時代→宗教的意識に目覚めるまでの時期と考えると、「糸巻きで巻き取られた糸」は、その後今に至るまでの日々を象徴する? 

第2スタンザ

 (かつて私は)選択する余地もなく洗礼された[6]が、

今回は意識的に、至高なる御名の恩寵のもとに、

私の全体[7]に呼ばれて、——三日月が落ちる[8]——

実存[9]の全的な孤形は、

ある小さな宝冠[10]によって満たされた。 

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[6] 幼児洗礼を指す。

[7] (the fullで)the period, point, or state of the greatest fullness or strengthという意味。my fullという用法は特殊なはず。

[8] 洗礼には死と再生のイメージが付随する(古い自分が水の中に入り、新しい自分になって出てくる)。月が沈み、新しく陽が昇ってくるイメージに、(私という)湾曲した器の孤形と三日月のイメージが重ね合わせられている。ちなみに、三日月と言えばイスラム教のシンボルだが、ここでは関係ないと思われる。

[9] existence; the fact or state of living or having objective reality。象徴に彩られた(リアリティのない)教会の世界観から、リアルな世界へ向かおうとしている?

[10] diadem; sovereignty(主権(全然発音できない))のシンボルとしての、宝石のつけられた王冠やヘッドバンドのこと。神の国(教会権力)に対する地上の国(政治権力、俗世間)の象徴として扱われている。

第3スタンザ

私の第2の叙階[11]——最初の時は、(私は)あまりに小さかった、

王冠を授けられ、——いや、授けていた[12]——父の胸で、

微睡んだ女王様(だった私)は。

しかし今回は、満ち足りて[13]、直立している[14]、

選ぶか拒絶するかの意志とともに、

そして私は選ぶ、——ただ、玉座[15]を。

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[11] rankに「叙階」という訳はあまり例がないが、「地位」というより「地位を授ける行為」をここでは指しているように感じた。ちなみに、結局ディキンソンは堅信礼を受けていない。

[12] Crowned—Cronwning—on my...とダッシュが続いており、「自らが冠を受けた側である」という客観的認識から、「いやいや、自分がむしろ女王で、冠を授ける側だった」と思い直す思考の跡が残っている。

[13] adequate; satisfactory or acceptable in quality or quantity

[14] 腕に抱かれていた幼児洗礼との対比。

[15] Johnson版ではAnd I choose, just a Crown—となっており、①chooseとjustの間にタメのダッシュが入っていない ②throneではなくCrownになっている。音韻が乱れない範囲で、crownの多用を避けた修正か。第2スタンザ最後の単語Diadem→第3スタンザ最後の単語Crownというつながりは、「宝石のついた冠からただの冠へ」(きらびやかな宗教世界から世俗へ)というイメージを喚起させるので、やはり修正しない方が良かったのではないか。

解釈

いかがでしょうか。注釈モリモリでちょっと読みにくいでしょうか? 私の翻訳技量の問題もあり、ただ日本語にするだけでは伝わらないことが色々あるので、こんな感じで細かい説明を入れてみました。
ただ、これでも全然掬い取れていないくらい、英詩というのは意味がミチミチに充填された文化的・社会的構築物です。日本の伝統的な芸術が「間」や空白、無音を活かしているのとは対照的だと思います。英詩読会では、こういう風に英詩に充填された意味を、可能な限り読み込んでいきます。

内容の解釈

ディキンソンが生まれ育ったのはマサチューセッツ州アマーストという山間の村で、厳格なピューリタニズムが根付いていました。また、1840年代から第2次信仰復興運動が盛り上がりを見せており、彼女の詩はその強い影響下で制作されています。しかしこの信仰復興運動というのが、どうも大衆的な色の強いものであったようです。
演説台から牧師が地獄の有様を大声で説く、民衆が狂乱し、泣きわめく、それから神の救いをまた大声で説教されて、大衆は陶酔的にキリスト教に「回心」する、なんてことが北アメリカ全土で展開されていたようで、ディキンソンの繊細かつ真正な精神性では、神やキリスト教の教義を信じたい一方、その大衆的な・大雑把な「信仰」に、全面的に寄りかかり、信仰を告白することは、それはそれで自らの心に嘘をついているように感じられたようです。
キリスト教を皮肉るような詩、「彼方の世界」についての詩など、この(ざっくりと言えば)「信じたいけど、信じてよいものか」といった葛藤の中で、ディキンソンは多くの素晴らしい詩を生み出しています。
それで今回の詩なのですが、「宝冠(diadem)」「玉座(throne)」または「王冠(Crown)」といった言葉で、世俗権力へ向かう意志を強く表明しています。キリスト教では、古来「神の国」と「地上の国」の対立という世界観がありますので、「宝冠によって満たされる」「ただ玉座を選ぶ」という表現は、「富を求める」とか「世俗的成功を求める」というだけの意味ではなく、「教会側にいるのを止める」というけっこう過激な主張になっています。
この詩が書かれた1862年、ディキンソンは文芸評論家のトーマス・ウェントワース・ヒギンソンと文通を開始しています。自分の詩を公表するために(公表できるクオリティなのか確認するために)批評を求めた、ということであり、そこから考えると、この詩で示されているのは「ただ内々に詩を書いているだけでなく、詩を通して世間と向き合っていきます」という意志なのではないでしょうか。「宝冠」「玉座」といった煌びやかな単語に彩られているのに、まったく嫌味な感じがせず、かえって峻烈な印象を受けるのは、これが「教会」と対比される「世俗」の側に行く、と言っても、やはり詩という芸術世界で高みを目指す志があり、通俗的な成功を目指すわけではないからではないでしょうか。
落ちていく三日月と対照的に、fill upされる円弧(arc)の鋭いイメージ。ディキンソンの詩によくある、極限まで練り上げられた、清廉とすら言える美的モチーフがあります。比喩がいちいち美しく、しかも的を射ていますね。
かなり思い切った決断をしていますが、それに満足している感じもでています。
これに「LOVE’S BAPTISM.」という直截的なタイトルを付し、「世俗」を「恋の話」のように見せる編集はあまりよくない気がします……。

形式面から見た解釈

英詩におけるひとまとまりをスタンザというのですが、この詩は3スタンザで構成されており、しかも行数が7行・6行・6行とかなり変則的です。
また、英語はアクセントを重視する言語なので、英詩は基本的に「弱強」または「弱弱強」のリズムで進行します。ここから、例えば「弱強」のセットが1行に4つ入った詩を「弱強4歩格」などと呼ぶのですが、こちらの詩の歩格の数を数えてみると4つだったり3つだったりまちまちです。
また、脚韻も、踏めている部分と踏めていない部分がバラバラになっており、第3スタンザでようやくaabccdと整った脚韻の形式になります。ディキンソンは天才なので、意味もなく歩格の数をバラバラにしたり脚韻をぐちゃぐちゃにしたりしないと思います。どのような形式でも、必ず意味があると考え、解釈してみますと、乱れていた脚韻が後半に行くにつれて固まっていく様子は、詩の内容面と対応し、「教会による第2の洗礼(堅信礼)をせず、自らの道を歩んでいこうと決めたため、最初は揺れ動いていた心が最後に固まった」ことを示しているのではないでしょうか。

また、詩全体を一望しますと、湾曲した大文字(CやDなど)が目立つように思います。第1スタンザではDollsのみですが、第2スタンザではGrace, Called, Crescent, Diadem、第3スタンザではCrowned, Crowing, Queen, Crownと、反り返った大文字がちりばめられています。
「宗教の世界じゃなくて宝冠(玉座)を選ぶよ」という主張の詩になってはいますが、第2スタンザ4行目「三日月が落ちる」→第2スタンザ5行目「実存の全的な弧形」と、この弓なりの形のイメージは何故出現したのでしょうか。(三日月がキリスト教を端的に象徴しているわけでもないと思います)
実は、このCやDなどの、詩を形成する文字のことをExistence's whole Arcと形容しているのではないか、——というのは考えすぎでしょうか。そうだとしたら面白いな、と思います。

最後に

今回の記事はいかがだったでしょうか? 普通に英語教育を受け、日本で働く中ではあまり触れないものの、英詩って面白そう、と思っていただければ幸いです

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