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「我思われるゆえに、我あり。」-批判の捉え方について-

我思うゆえに我あり。デカルトの言った言葉として知られていますが、本当にその通りだと思います。「自分の一番の敵は自分」「他人の眼なんて気にするな」もちろんおっしゃる通りです。

ただ、現代で自身の心を鍛え続けることは容易ではなく、自分が満たされているかどうかっていうのは、相対的な価値を感じた時により強く感じるものじゃないのかとも思います。

毎日膨大な数の情報にさらされている中でなおかつ比較もできる。そんな状況で「自分が生きたい道をひたすら貫く」そんなことができる人の方が鉄人だと思います。全く他の人を気にしない人なんてまじで稀です。

そんなこんなも極論人は「暇」になったんです。

自分が生きるのに必要な情報を取り入れる。そうやって進化を遂げ、文明を気付いた人間ですが、情報を取りに行くっていうのを、前提で生きてます。本来生きる(最低限生存する)為に必要なレベルの情報なんてのは割とクリアできるようになってきました。でも、情報を取らなくてもいいよーなんて言う人もいないし、やっぱり気になっちゃいますよね。これはもう遺伝子レベルの話なんでどうしようもない。だから、自分の生活できる範囲の情報が集め終わっても、他人のことを気にする。しかも終わりはありません。

ですが、最近は情報過多の時代で、キャッチする情報の偏りがより大きくなってきました。増え続けるメディアの中で何を正しいと思うのかって本当に人それぞれですよね。コロナもたくさんの説があって大変。

そんな時代だからこそ、「我思われるゆえに我あり」という考え方もありなのかと思います。

情報の消化がどんどん早くなる中で意識されることって実はすごく大事なことで。もうそれだけで幸せな時代とか来そうなくらい。っというか来てる。本来1人の人が持つ情報量ってデジタルでは中々表現しきれないものです。ですが、デジタル社会に移行していく中で、人そのものの情報量も薄まっていきます。出会い系アプリの普及も人の捉え方がカジュアルになった部分も大きいと思います。

ですので誰かの中で自分が存在し続ける。ということは、それがそもそも幸せであり、自身が存在する理由になると思います。そして、その意識については「好き」も「嫌い」も同じなのです。

こんなに楽しい情報が溢れている世の中で、誰かのことを嫌ってる時間なんて勿体無いと思います。それでも意識しているということはすごいことです。

もちろん、目の前の人とよりよい関係を築く上で好意を伝え合うことは大事なことですが、自身の存在については、意識の絶対値で感じ取ることができます。

自分が存在する以上、批判はあって然るもの。プラスもマイナスも意識の内なので、他人の意識の輪に入ることがもはや幸せなことなんだと思います。

自分の感情が目の前にいる人に動かされた時、それが良い時も悪い時もあなたがその人を意識しているということですね。


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