この世界をぶっ壊して汚部屋を創造する

 汚部屋。この言葉はいつ頃から使われるようになったのだろう。昔ならゴミ屋敷のレッテルを貼られていたであろう汚い部屋を、なんとなくコミカルに、けれどもその負のイメージは損なうことのないように作り出された概念なのだろうか。

 世の汚部屋の程度はさまざまで、自称汚部屋の人からちょっとこれはどうにもなりませんねという人まで、沢山の汚部屋がある。Twitterでそんなタグが流行ったこともあったようにも記憶している。これはつまり、自らの「汚部屋」を全世界に解き放つことは、選択的に汚部屋になる、ということなのだろうか。だとすれば、汚部屋の住人は自ら汚部屋の住人になったのだ。
かくいう僕も汚部屋というかもうゴミ屋敷をつくってしまった経験が3度ほどある。1度目は実家、2度目は大学時代の学生マンション、3度目は追い出されてしまった国立の家である。
 1度目は不登校時代、ひたすら部屋にこもっていたので本とCDとポテチとカフェオレのゴミが堆積し、よくこんなところで寝ていたな、という風態に仕上がった。毒親からぶん投げられた数々のものもそのまま残っている。今はもう片付けられてしまったのかもしれないが、青春の初期はあの汚部屋で泣きながらチャットモンチーや吉井和哉を聴いていたんだなぁと思うとしみじみする。彼女とかは絶対に呼べない、とも思う。親戚にあの部屋を見られた時、その場に散らかる賞味期限切れのカスタードプリンを見て数秒呆気に取られた後「ナマモノはやめなさい、ナマモノは」、と言われて、僕ナマケモノだから無理です、と答えたのは今となっては恥ずかしい。
 2度目は京都のアパート。4年半居住したが、ゴミを捨てた回数自体が相当少なかったと思う。大家さんが超のつくいい人だったから良かったものの、引っ越しの時に最終的に出たゴミ袋の数はゆうに30袋はあったのではないか……特大サイズで。おまけに引っ越し作業の99%は後輩たちにやってもらい、僕はそれを見ながら酒を飲んだりポテチを食べたりしては、ゴミをそこらじゅうに放置するので、本麒麟の赤いロング缶を捨てても捨てても増えていくという無限地獄だった。よく後輩たちもキレなかったなと思う。あとはティッシュ。大量のティッシュが出ていた。物を捨てない割に汚いものに触りたくないので、ティッシュで包んでそこらじゅうに捨てることを繰り返していたのだ。なので、部屋中にあったが、自慰行為用ではない。僕からすれば、ゴミ箱や常備されたゴミ袋といった概念は狂人が創り出した虚構の類なので、まともな人間である僕の家にあるわけなどなかった。4年半も開けたことのないカーテンが虚しく垂れ下がった部屋で、黙々とゴミを捨てては新しいゴミ袋を取り出す後輩の手際の良さに感心しながら、僕もちょっとは片付けみようかとチマチマ缶を潰していたら、邪魔だから何もしないでください、とベッド上に追いやられた。そして、差し入れだと思って自分と後輩の分の本麒麟を買って行ったら、いよいよ「酒飲んで掃除できるわけないでしょうがこんな部屋! 人の住むところじゃねーよ!」とガチで説教された。酒は全部僕が飲んで、残骸はそのままベッド近くに捨てた。潰さずに。
 そしていよいよ引っ越し2日前とかになって、別の後輩が手伝いに来てくれた時も僕は事実上の戦力外通告を受けたので、特に片付けをするわけでもなく、家電を引き取りに来たリサイクル業者の応対やらゴミ袋の買い出しやら飲酒などをやっていた。何で皆あんなに黙々と片付けられるのかわからない。後輩たちには本当に感謝でいっぱいである。あの部屋から引っ越せるとは思わなかった。

 3度目の国立の家。これはもう、どうにもなりませんという状況になってしまい、生活保護のワーカーさんに相談し、業者に片付けてもらった。本麒麟との闘いはここでも起こっていて、必死に片付けてくれる業者の方をベッドの上から眺めながら、みるみると捨てられていく赤いロング缶に哀愁を感じていた。70リットルのゴミ袋が大量に積み上がり山ができているのを、汚したなー、と思いながら見つめていた。ここでも開けたことのないカーテンが虚無感という質量をもってぶら下がっており、真昼間にも関わらず薄暗い部屋で、本は捨てないで下さいという僕の声がこだましていた。

 さて、ここで疑問が浮かぶ。そもそも汚部屋とは何かという疑問もそうなのだが、私たちが汚部屋を創造する……してしまうのは如何なることか、という問いである。
 まず、社会が悪い。大体のことは社会が悪い、と思う。個人的なことは、政治的なことだ。たとえば、私たちは所有をやめられない、という点を上げることができる。所有したいものを、部屋以外に置くとなると生活コストが跳ね上がるし、大抵の所有したいものはそばに置いておきたい。土地建物の値段が跳ね上がり、物価も上昇する中、賃金や生活保障のための金銭は良くて現状維持……というこの社会が、汚部屋化を促進している。
 そのことを深く理解する為に、ルーマニアの思想家エミール・シオランの名著『カイエ』(2023年6月11日現在、3万円超えで買えないので、分冊化しまくるとかして安くしてください)にある次の言葉を引きたい。

 "ドアに次のように書くつもりだ、すなわち、「あらゆる来訪は侵害である」「どうか入らないで下さい」「どなたの顔も迷惑です」「ずっと留守です」「ベルを鳴らしたものに災いあれ」「どなたも存じ上げません」「狂人、危害を加えるおそれあり」"

 もし汚部屋が、冒頭でも触れたようにTwitterなどで他者に認識されるなど、部屋主が進んで汚部屋と認定するのだとしたら、選択的に汚部屋になっているわけで、私の部屋は汚部屋ですと開陳しない限り、清潔だと言うこともできる。実際にぼくはそうして京都の部屋に彼女を呼んだ(3泊して一緒に本麒麟を2ケース開けた)その点において、上記の「誰も部屋に入って来るんじゃねぇ」的な言葉を使えば、一生汚部屋で暮らさずに済むのであろう。汚部屋に住んでいるのが狂人であれば危険なので多くの人は近づかないから、汚部屋だとバレることも自己申告することもないかもしれない。

 では、そうではないとしたら。つまり、汚部屋に住んでいるのはまともな人で、汚部屋である事の価値を見せびらかすつもりもないとしたら。

 
 まず私見を述べれば、汚部屋を創る、汚部屋になるということは自己開示などではなくむしろ、世界の片隅にある手付かずの部屋を破壊し、物を散乱させ、新しく世界との関係性を取り結ぶ儀式であり、神聖でクリエイティブな営みである。つまり、汚部屋とは結界の張られた神域であり、そこに居住する私(たち)は小さな「私だけのセカイ」の創造主である。私と汚部屋との関係性によって誰にも犯されない私のセカイの物語は進む。それは完結することのない永遠の創造物語であり、汚部屋になる(汚部屋を創り続ける)ということは、永遠な孤独を手に入れることだし、自らの「なか」に壮大な神話体系を持つという体験である。
 また、例えば社会学者のピーター・バーガーのいう、"我々を虜囚として囲う監獄としての社会を脱するような社会の外へと志向する"場合、汚部屋を創るという体験は自らの「なか」に神話体系を創る叛意的で快楽的な体験であると同時に、自らのすぐ側である居住空間に他者に侵食されない社会、「そと」をも創り出すという二面性を持つ行為でもあると言えるだろう。この二面性と対峙して折り合いをつけながら、あるいは一方的に自らの野生を解き放ちながら自身の部屋をクリエイトする行為は、狂気を身体のすぐ側に引っ張り出すと同時に、内なる他者との会話の連続である。この半径3メートルほどで繰り広げられる狂気の外在化と内在する他者との会話という現象は、「なか」に創った神話体系に組み込まれ、自分史として刻まれる。そしてそれは、生活の主体としての自身の行動となって「外」へと表出する。この神話体系の組み込み→自分史化→行動としての表出の過程こそ、聖なる天蓋をぶち破り、世界の片隅の綺麗な部屋をぶっ壊して汚部屋を創造するという行為の結果なのだ。

 書きながら音楽を聴いていたら右耳側のイヤホンがザッという残響とともに聞こえなくなった。

 さて、この議論を先程の「汚部屋に住んでいる人がまともだったら」という話と紐つけてみよう。私たちにとって汚部屋の創造とは、世界との関係性の結び直しであり神域的セカイの建設である。そうであるならば、ミニマルな世界/社会/部屋の建築家でありセカイの創造主である私たち汚部屋の主は、「まとも」であることができるだろうか。あるいは、できないとすれば、いかに「まとも」に近づけるだろうか。汚部屋に住んでいる時点でまともではない、というありふれたレッテルに、どう立ち向かうことができるだろうか。

  "「みんながやっぱ
  自分は人間のクズだと思ってればさ、
 素晴らしい世界が来ると
 思うんだよね(笑)。」"
(忌野清志郎『使ってはいけない言葉』百万年書房、2020)

 素晴らしい世界が来て欲しいものである。しかし、自分達をクズだと思う事が怖くて怖くて仕方のない非-汚部屋の狂人たちが「まとも」な汚部屋の主を見るその目は、シベリアの永久凍土のように冷たい。そりゃ、大いなる社会においては多数派ですからね狂人のほうが。私たちまともな少数派が、それに/いかに戦いを挑むか。あるいは、もう諦めて汚部屋という神域に篭り、神話体系の組み込み→自分史化のプロセスを孤独に回し続けるか。そこには深い葛藤があるだろう。しかし、やらねばならない。選択せねばならない。私たちの明日のために。

 ここまで読んでいただいたお時間に余裕がありそうな読者向きに、せっかくなので更なる議論の沼にお付き合い願いたいのだが、違和感として、「これ、変形したセカイ系か?」という感想があるのではなかろうか。結論から言うと、違う。というのも、セカイ系は多くの場合、私とあなたの結びつきによって赤の他人を巻き込むことでセカイが鳴動するが、汚部屋と私の関係を取り結んだところで他人を巻き込んだ世界は変わらない。地球は回る。雨もりでもしない限り部屋に雨は落ちてこないし、当然綺麗な彗星もカーテンを閉めていたら見えないし、部屋の扉は閉まったままだ。ロボットが都市で戦っていても、ゴジラが暴れていても汚部屋にはなんら影響はない(ように思える)汚部屋は閉じたセカイであり、開かれたミニマルな社会である。よって、セカイ系的な物語とは一線を画したものとして、汚部屋と私たちの物語は語られるべきなのである。
 さて、この話は以上である。いきなりすぎると思われるだろうか。そうだ、その通り。そして、続編が出る。いつになるかわからないけれど、多分出る。ちょっとでも面白いと思っていただいた方には、待てるだけ待っていただきたい。

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