裸眼なんて見えなくてなんぼ

たとえ見えないだけだとしても、見ずに済むならそれも良い。




自慢じゃないけど、私の視力はかなり低い。
右目0.1、左目はそれよりさらに少し低い。

普段、家では眼鏡をかけて生活していて、人と会う時はコンタクトレンズ。しかし家にいるとき、たまにどちらもつけず裸眼で過ごしたくなることがある。



当然、裸眼になるとあんまり見えない。

仮にも裸眼で外出なんてしてしまったら、交通事故のリスクは上がるし、街中のあらゆる文字を読むのにかなり顔を近づけないといけなくなる。
ただただ不便で危ない。

しかしながら家にいる分には割と裸眼でもなんとかなる。
家の中にあるものは普段から把握しているし、物の輪郭がわからないほど視力が低いわけでもない。
当然、本とかpcとか書類とか、主に「文字を読む」ことは難しくなるのだけど、それ以外にできなくなることはそんなにない。
なんなら、顔を近づけると文字も読める。

とはいえ、裸眼になることで何かできることが増えるわけではない。
やっぱり結局、不便であることに違いない。
そうでなくちゃ、今頃眼鏡してない。

ただ、どういうわけか「あんまり見えない」という状態が、たまーに恋しくなってしまうのだ。



よくわからないけど、きっと世界に対して鈍感になったような気分を疑似的に得られるのだと思う。

鈍感力。
私にとっては、魔法みたいな才能。

当然、鈍感がマイナスに働く場面もあるだろうし、良い面だけ見て手放しに憧れるのは失礼だと思っているのだけれど、必要なときに鈍感になれる力があったら、と都合よく考えてしまうことがある。

むしろ、いらないところばっかりが敏感な私。
敏感と鈍感のスイッチがもう少しずれていたら、今抱えている悩みももう少し軽かったのかもしれない、と思う。

そんな、鈍感への歪な憧れを、低視力の裸眼はほんの少しだけ疑似的に満たしてくれる。
もちろん、それは物理的な鈍感。
私の憧れる鈍感とは、まったくもって異なるもの。

ただ、「鈍感になりたい」という気持ちが浮かび、眼鏡を外すだけで簡単に物理的な鈍感を手にいれる。
自分が望んだときに鈍感を獲得できるというこのプロセスが、便利な時だけ鈍感になりたいという都合の良い妄想に重なるのだ。


そして低視力の裸眼は物理的なものとはいえ、鈍感の一種であることに変わりはない。

目の前にディスプレイがあって、そこに自分に対する罵詈雑言が並べられていたとしても、裸眼で見えなかったら、認識しなくて済むだろう。

そんなわけで、別に何も見なくていい時は、たまに裸眼になってみる。



なんて、深夜の部屋。
noteも裸眼で書いてやりたかったけどさすがに不便だったので眼鏡をかけた。
もう書き終わりなのでまた外そう。
いや、寝た方がいい。




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