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私が変わり者になりたがった頃

度々訪れる自己紹介の機会。
私は自分のことを「個性的」「変わり者」と自称していた時期が、かつてあった。

だけど、今では言わない。
今日は、私が変わり者を名乗ることをやめた話を少し。




私が自らを「個性的」「変わり者」と言って回っていたのはいつのことだったか。
確か、中学生くらいがピークだったと思う。

別に、その年頃特有の、常識を超越したモノへの病にも似た憧れとかじゃない。
ただ思春期の道中、自己への理解が不完全な中で、自分自身について考えついたひとつの仮説。


きっとそれは、自分が日常の中で感じる他人との違いを、簡単に説明できる決まり文句が欲しかったから。

生きていく以上、どうしても自分が常に世界の中心にいる。
すなわち自分のことだけ、誰のことよりも知っている。
だからこそ、他人との違いに敏感になってしまう。

学校という小さな社会で暮らしていく中で、自分の考えや自分そのものを受け入れてもらえない経験なんて、何度も出会ってしまう。
そうすると、他人と自分が違う人間であることを強く実感する。

だけど、強く感じられるのは常に「自分 対 他人」。
自分の感情が刺激されない「他人 対 他人」の違いは、分かっていてもインパクトが小さい。
だから、自分と他人の違いだけ、いろんな感情とともに意識の届かない深い無意識へと潜り込んで蓄積していく。

「自分は変わり者」って言ってしまえれば、簡単に説明がついて気が晴れた。
解決はしないかもしれないけれど、解明はできた気になれた。

「自分は他人と違う人でありたい」っていう欲が加わったならば、なおさら加速するのかもね。



違和感を覚えたのは高校時代。
他人と違うことは当たり前だって、ここでようやく本当に気づく。

私は放送部にいた。
中学の頃、部活で特に人間関係が上手くいかなかった私にとって、高校の放送室はまるでユートピアだった。

春が来ると、新入部員を巡って各部活動が宣伝活動を始める。
むろん我々も、例外ではなかった。

部活宣伝の一環として、体育館に新入生が全員集められた前で各部がアピールする、「部活動紹介」なるイベントが学校に設けられた。
その時期が近づくと、部員はパフォーマンスや紹介文なんかを考える。

私たちはどうすれば自分たちのことを伝えられるか、考えた。
自分たちの部の長所を探した。
すると真っ先に、「個性豊か」というキーワードが発掘された。

すると続けて気づいてしまう。
「個性豊か」なんて、どんなコミュニティでも簡単に言ってのける決まり文句じゃないか、と。

どの部活に所属してたって、結局は自分が入った部活のメンバーについて詳しくなっていく。
だから、同じ部活のメンバーに偏って、その個性を深く知っていく。
そうすると、自分たちが個性豊かなように感じてしまうけど、他の部活のメンバーの個性を自分が知らないだけかもしれない。

実際、他の部活の人も「個性豊かなメンバー」ってアピールしていた。
それを聞いて「うちの個性に敵うのかなあ」なんて疑るけど、相手目線だと同じ事なんだろうな、って思って、心を抑える。

まあ別に、(ここまで言っておいて)それはどうでもいい話。
「個性豊か」とアピールすることと、「他の部活動には個性がない」とみなすことイコールではないし、うちの放送部のメンバーが、「キャラが立っている」のは紛れもない事実だと思う。


けれど、「『個性豊か』なんて、どの集団も言っている」なんて考えると、自分のことを変わり者呼ばわりすることも自然となくなった。

自分は自分の個性を人よりも知っているだけ。
そう思ってしまうから、簡単に「変わり者」を名乗れない。


本当に個性的な人を想像してみる。
自分が個性的だと思う知人やインフルエンサーを想起してみる。

そうすると、どの人も見た目や立ち振る舞いから、本当に個性を感じられるもの。
自分は個性の強さでそれらと肩を並べられる?
自信満々にイエスと言えるはずがない。
自分は到底、その域にはいない。

一方、一部の知人やインフルエンサーがもつ「個性」は、外から見て分かりやすい"タイプ"の個性なんだ、とも思う。
個性にもいろいろあって、外から一瞬見ただけでは分からない個性だってきっとたくさんあるし、皆それをもっている。

だから、自分自信のことや仲の良い人については、その個性に気づいていくし、「変わってるなあ」なんて言えるようになる。

……なんか、当たり前すぎる話だなあ。



もう私は、変わり者でなくてもいいと思う。
正しく言うならば、初対面の相手に第一印象として与えられるような個性持ちじゃなくてもいいと思っている。

自分には間違いなく個性はあるのだけれど、個性があること自体は普通のこと。
個性自体に良し悪しはない。わかりやすいものでも、気付かれにくいものでも、価値に問題はない。


多感な時期を経て、歳を重ねて学ぶことは、案外道徳話として子どもの頃からミミタコになるほど聞いてきた、当たり前のことなのかもしれないな。



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