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『私たちが目を澄ますとき、』掲載に寄せて

※下記のリンクより、一部無料で読むことができます。

カラー扉絵

掲載までの経緯

『私たちが目を澄ますとき、』という短期連載作品を、講談社の女性向け漫画誌BE・LOVEにて、9・10・11月号の3号にわたり掲載していただきました。

KADOKAWAから出版された『僕らには僕らの言葉がある』をお読みになった講談社の編集者の方が声をかけて下さり(前編掲載の際、『僕らには僕らの言葉がある』の紹介記事も載せて下さいました!ありがとうございます)、女性誌向けの作品を作っていくことになりました。最初はノナと真白の話をと思っていたのですが、すでに他社で単行本化された作品から新規読者に向けてあらたに読み切りを作るというのは想像以上に難しく、方針を転換して別の切り口から描いていくことにしました。

そこで新たに考えたのが、『僕らには僕らの言葉がある』では今まで詳しく触れる機会のなかった「相澤真白の両親…聴者でしかも音楽関係の仕事に就いている父と、ろう者の母はなぜ親しくなったのか」という点についての話です。これを作品化したのが今回のものです。

聴者からろう者に対する「音楽」のアプローチに対して作者が思うこと


この作品に関して詳しく話すには、まず私という人間と音楽とのかかわりについて説明する必要があります。

6歳のときにピアノを習い始めました。両親も音楽を聴くのが好きだし、ピアノを触ったり習っていた経験があったため自然にというか、特に何か意気込んでという感じではなかったようです。たしか、近所に住んでて仲良くしてもらっていた年上のお姉さんたちがみんな習っていたからとかそういう理由だったと思います。

しかし、その後何度か先生は変わったものの、始めてから25年以上たった現在でもピアノを弾くことが生活の一部として組み込まれており、私という人間を構成する大きな部品として存在していることになるとは自分でも想像していませんでした。音楽が好きな人は家族親族にいくらでもいますが、大人になってもずっと楽器をやっているのは私だけです。ちょっとさみしい。

そんな人間がなぜ、音楽とは遠くかけ離れているように思える手話やろう文化といった題材にここまで強い興味を引かれ続けているのかというところがあまりピンとこない方もいると思いますが、私自身の感覚から言わせてもらうと、ここまでずっと音楽と向き合い続けてきたからこそむしろ見えてくるものがあるという感じです。

とはいえ音楽の教育メソッドにはいろいろな傾向があり、どれが良くてどれが悪いということはありませんが、どんな傾向で教育を受けたかによって音楽というものの捉え方はかなり変わってくると思います。

私が通っていた教室には6歳から12歳まで、ピアノの個人レッスンとは別にソルフェージュという音楽理論や楽譜の読み方を学ぶ授業がありました。簡単に言うなら、個人レッスンは実技、ソルフェージュは座学といった感じです。この2つの異なる側面から同時に学ぶことによりピアノという楽器だけでなく音楽そのものへの理解を深めるという方針でした。

今になって改めてよく実感しますが、ソルフェージュの授業はその後の私にとって非常に大切なことを教えてくれました。それは、音楽を目で見ることができる方法があるということです。

その最たる具体的な例が、楽譜です。
私のように自分で楽器をされている方は、んなこたーわかってるよと思われるかもしれませんが、普段楽譜というものにあまり触れることのない方に向けて言うと、楽譜は単純に音の高低や強弱が書かれているだけのものではなく、その曲についてのとにかくあらゆる情報が視覚的に一堂に確認できるようになっているものなんです。

しかし、ただピアノを弾くために楽譜を読むという作業だけしかしてしないと、目の前にピアノがある状態でしかなかなか楽譜に触らなくなってしまいます。それを防いでくれたのがソルフェージュの授業でもありました。

ただただ、楽譜を目で見て読み解く。音を鳴らして”なんとなく”わかるのではなく、理論的に理解する。この時間が毎週定期的にあったことがとても大きかったと思います。

自分で言うのもなんですが、私は習い始めの頃から楽譜を読んだり書いたりするのがなぜかものすごく得意でした。ピアノの個人レッスンの際も楽譜を読むことに関して困ったことは正直なところ今まで一度もなかったです。だから余計にソルフェージュの授業が楽しかった印象が強く残ってるだけなのかもしれない。ピアノを弾くのはものすごく上手だけど「ソルフェージュはあんまり好きじゃない、興味がない」と言ってる子もいたので、ほんと感じ方は人それぞれだと思います。

また、小学生の終わりごろからDTM(デスクトップ・ミュージック、PCを使って音楽制作を行うこと)も始めました。DTMにはいろんな制作方法がありまして、たぶん外部入力装置としてキーボードを接続して音を実際に弾くことで入力するやりかたのほうが一般的だと思うのですが、私の場合はそういう外部装置を買う資金力もなかったのでテキスト音楽サクラという、外部入力装置がなくてもメモパッドに文字で情報を打ち込んでいくことで作成ができるプログラミングタイプの入力ソフトを使っていました。

これ以上詳しく説明するとめちゃめちゃ長くなるので省きますが、とにかく音の情報を文字に変換して打ち込むという作業をけっこう日常的にしていた時期があったんですよね。今も自動演奏の音源を作る時は基本、テキスト音楽サクラで作っています。

そういういきさつもあって、私の意識の中で音楽とは「音を耳から聴くことで、聴覚的に鑑賞したり、自分で音を出して自己表現の一部とする」「楽譜を目で見て読み、視覚的に理解・分析する、または視覚的な表現として書き出すことで情報として整理する」という2つの層があります。

音楽というのは「耳で聴く」だけのものではない、「目で見る」という別のプロセスから認識する方法が同時に存在しているという感覚が子供の時から実体験としてずっとあったということです。

そういう感覚で生きてきたもので、ろう文化の中にも音楽があるということを知った時も特に意外性や衝撃はありませんでした。そりゃそうだろうなと。この人たちの社会では、私たち聴者にとっての音楽とは違って、目で見る音楽の分野に特化しているのだということがすぐに理解できました。

耳で聴く音楽と目で見る音楽があり、それぞれ違う形で同時に存在していることになんの疑問もなかったのです。

しかし、しかしです。
聴者からろう者に対するアプローチという点を見てみると、どうでしょう。
なんだかどれもこれも、なんとかして耳で聴く音楽に寄せようとしていたり、それを源泉としているものばかりではありませんか。まるでこの世には耳で聴く音楽しか存在していないかのような。そっちのほうが私には衝撃でした。

聴者からろう者に対して、音楽を共有しようという試みそのものはかなり昔から継続して行われ、様々な技術開発やアプローチが行われています。

いわゆる手話歌とか…最近だと音楽に合わせて振動や光が出るタイプの機械も開発され、ろう学校などで使用されていますね。これはこれで一定の成果が出ているということは事実です。(聴者側から見れば。)

しかし、私はこの系統のとある機械の開発に携わった方が「子供たちが積極的に声で喋るようになってくれて嬉しいと思った」というようなことをおっしゃっていたのがずっと胸に突き刺さっています。なんだ、結局、なんとかして音のある世界に来てほしい、声を出して喋れるようになってほしい、聴者に近づいてほしいという、聴者側の願望をかなえるために作られた機械なんだなーと…。こうしてまた、音のない世界で生きていきたいと思う人間は良くないもの扱いされ、置き去りにされていくのだなと、そっちのほうが気になってしょうがなくて…素晴らしい技術なんだけど、これ”だけ”で全てが解決とは、ちょっと思えなかったですね。

手話歌、とくに聴者が行っている手話歌に関しても、はっきり言うと否定的な立場です。やっているほうは100%良かれと思ってやっていることだと思うので、なんとなく言いづらいんですけど。

先述したソルフェージュの授業からもうひとつ間接的に教わったことがあります。「これ、良い曲だなあ」と感じるときの聴者の脳は音楽的なギミックによる浸食を無意識に、そしてかなりの割合で受けているということです。

たとえば、世間的にはめちゃくちゃいい曲だと言われているけど自分は全く知らない曲を、歌詞だけ見せられたとしましょう。もしかしたら歌詞だけ読んでもすごく素晴らしい内容で、「いいなこれ」と思うかもしれません。しかし、それはその曲全体を「いいなこれ」と思ったことにはなりませんよね。曲を全く聴いていない時点ですでにいいなと思ってしまってるわけですから、どんなメロディとかどんな音でとかはもはや全然関係ないんですよ。

ということは、曲を聴いているのに「これ、歌詞”が”すごく良いね」と思っている時、実際には歌詞に付随するメロディやバックトラックといった音のギミックも含めて「良い」と判断しているということになると思います。「歌詞はクソなんだけど曲はいいから聴けてしまう」ってことはよくあっても、「曲はクソなんだけど歌詞はいいから聴ける」って、あんまり一般的ではないですよね。シンプルに言うとそれが答えではないかと。

つまり、私が思うに聴者が感じる「良い曲だ」という印象のほとんどは音ありきだということです。これを踏まえて手話歌というコンテンツを”想定される視聴者”と同じ環境を設定して見てみた時、強烈な違和感があることがわかると思います。試しに、全く知らない曲の手話歌の動画を、ミュートの状態で見てみましょう。手話歌をしている人はおそらく曲に合わせて、一生懸命感情をこめて手話をやっています。手話によって「歌詞の良さ」を伝えようとしています。しかし、見ているこちらはその感情を込める元になっている曲を一切知らない、つまり共通の前情報を持たないわけですから、どんなに感情をこめられたところでその感動をその人と共有することはできません。ただただ、手話の文法やニュアンスを無視した手話単語の羅列と表現している本人だけが分かっている情報を基にしたエモーショナルな感じの表現がずっと続く動画であるというだけです。このやり方では、”たぶん、いい曲なんだろうな”と想像させることはできても、ろう者自身が自分で直接”いい曲だな”と評価することは永遠にできない。

単純に歌詞のよさを伝えたいというのなら、わざわざ歌に合わせないできっちり日本手話の文法に則った手話ポエムとして完成した表現にすればいいだけの話ではないかと思うのです。そこにわざわざ、ろう者が情報として直接受け取ることのない”曲”に合わせるという行為を持ってきた時点で、歌詞だけでなく曲も含めて良いと思っているということを自ら証明している形になっているのではと思います。

それと、もっと根本的な話になりますが。
歌詞がない曲、たとえばクラシックの曲なんかはどうやって手話歌で伝えるんでしょうか?音楽のすばらしさを伝えたいと言っても、音楽って、歌だけじゃないですよね?そのへんをどう考えてやっていることなのか、いつも疑問に思います。

振動や光でのアプローチという話に戻すと、これは手話歌よりはまだ音楽そのものをろう者にダイレクトに伝えようという傾向はあるものだとは思います。でも振動は目に見えないし、光には色の変化などはあっても抑揚というものがありません。そして最大の問題は、聴者の都合で音楽に合わせて振動や光を動かしているので、ろう者自身のペースでその情報を受け取ることが出来ない場合があるということです。

私がなぜこんなにも楽譜にこだわるのかというと、
楽譜には振動や光でのアプローチで再現できない「抑揚(イントネーション)」の部分が音符の並び(※清書された楽譜の場合は必ず、音符の音高・音長をある一つの数値を基準として定められた間隔の長さや高さに配置されることよって書き表されています)によって視覚化されているからです。

手話を学び始めて気づきましたが、この、楽譜で視覚的に書き表されている「抑揚」をとらえる感覚って、手話言語における「(音のない)抑揚」の感覚と非常によく似ているんですよ。だからむしろ、聴者よりもろう者のほうが、きちんと楽典を勉強すればすごい早さで楽譜を読めるようになる人が多いのではと思うくらいです。

さらに、楽譜はその瞬間瞬間の音を追うだけでなく、前後にある音やフレーズの動きまで同時に視認することが出来ます。多くの聴者の場合、楽譜の前後にある音やフレーズの動きから予測・推測するというアクションは、かなり訓練しないとなかなかうまくできるようになりません。どうしても、目の前の音を追うという感じになってしまいがちです。しかし、ろう者の場合は目の前の情報だけでなく、前後の情報にも自然と目を通す習慣のある人がほとんどだと思いますので、これも楽典をきちんと勉強すれば聴者よりもすんなりとできるようになる人が実は多くいるのではと思います。

もちろん、とはいえ楽譜だけではやはり不十分な部分もあるので、楽譜に書かれている内容に対する補助要素として振動や光でのアプローチをつけるとさらに伝わりやすくなるはずです。

まあだから、私の中では現状の逆で、
楽譜など視覚的に見られる情報に対し振動や光の補助アプローチがあったほうがよいのではという考え方になっています。

振動や光だけでは、それって情報保障というより単なる「おすそ分け」に過ぎないのではないか?と…。なんというか、直接会場で音楽をきいてもらっているというより、ドーム公演の音漏れと光漏れを拾って渡しているだけのような…。雰囲気だけ味わってねみたいな。

そう、あの、もっと言うと、現状として聴者からろう者に対する音楽的なアプローチには「情報保障」という概念そのものが欠けているように感じるということです。

音楽における情報保障とは、「聴者が良いと思っているものをおすそ分けする」のではなく、「ろう者自身が良いと思うか悪いと思うかを自分で感じ、考え、評価できるように、その音楽に関する情報をできるだけプレーンな状態で渡す」ということだと思います。

でも、現実に今行われていることは圧倒的に前者ですよね。

「聴こえない人にも音楽のすばらしさを伝えたい」というのは、「聴者にとってのいい音楽」を「聴者と全く同じように感じてほしい」という意味にすぎない。

だから、生の情報ではなく、聴者の主観が一枚噛んだ状態の情報しか入ってこない。「この曲は私たち聴者にとって良い曲だから、ろう者も必ず良いと言うはず。だから伝えてあげなきゃ」という、決めつけから始まってるんですね。

ろう者本人に判断や評価をゆだねているのではなく、「良い」という感想が返ってくることしか想定していないように思えます。あなたがたのためにこれだけしてあげてるんだから、当然感謝してくれますよね、という圧。

そして、ろう者側もそれを感じ取っているから、本心はどうであれ「ありがとう、良かったよ」と聴者に対して”お礼”を言わざるをえない状況になってしまっている場合がある。

このすれ違いがずーっと続いての、今なのかなと。


音楽についての話は今まで避けてきました。でも、どうせやるなら思ったとおりにやってみようと思って描いた結果が今回の漫画のように「楽譜を見せる」というアプローチでした。

もちろん、問題点は多いです。楽譜の知識がなければ全てをくみ取るのは難しいし、実際作中でも、音楽知識のない芙美子は極めて表面的なことしか理解できていません。

しかし、私がよく見てほしいのはそこじゃないんです。
前述のような意見を踏まえて、楽譜を見せるということは、少なくとも私の経験と考えでは「おすそ分け」ではない、「生の情報を渡す」ということに限りなく近いという部分を見てほしい。芙美子に楽譜を見せて、浩二はただ「どう思う?」とたずね、判断をゆだねました。「どうだ、素晴らしい曲だろう」などと言って、彼女が自分で目の前の情報について考えたり判断したりする機会を奪いませんでした。そこを見てもらえたらと思います。

「耳が”聴”こえない」という表記について


もうひとつ、旧ツイッターでもお伝えした以下のことについて。


お気づきの方もおられると思いますが、私は『僕らには僕らの言葉がある』でも一貫して「耳が”聴”こえない」という表現を使っています。こちらも複数の監修や校正を経て出版されたものですが、特に指摘は受けませんでした。

しかし、今回の場合は制作中に監修と校正の双方から「漢字の使い分けについて理解した上で使っているか」という旨の指摘がありましたので、この機会に私の考えを詳しく書いておこうと思います。

まず、漢字の使い分けについて理解しているかという点。
理解しています。
理解しているからこそ、疑問を感じているのです。

「きこえる」という状態を日本語で書き表す時には、①「聞こえる」②「聴こえる」の二通りの書き方があります。それぞれの違いは、端的に言うとこうです。

①「聞こえる」:音や声が、自然と耳から入ってくる。
①「聴こえる」:聞こえてくるものの内容が理解できる。

これが日本語としての正しい書き分けです。
ニュースや公的な文章なども基本的にこの通りに書き分けられています。
そのため、私たちが日々目にするのは圧倒的に「耳が聞こえない」という表現のほうです。

この決まりに則って考えると、今回の作品の主人公である芙美子は両耳を完全に失聴している、つまり音や声が自然と耳から入ってくること自体がないため、「聞こえない」という書き方のほうが適切なのではというのが指摘の内容でした。この指摘自体は、日本語の表記という観点から見ると極めて真っ当なものです。私の書き方は”日本語として間違っている”からです。

でも私、思うんですよ。

そもそも耳から音を聴くことでは物事を認識していない芙美子というキャラクターを表現するにあたり、音や声が自然と耳から入ってこないことと、耳から入ってくる音や声から内容が理解できないことをなぜそんなにはっきりと区別したがるのだろう?

「この人はそもそも音や声が自然と耳から入ってこないんだ」「この人は、内容は理解できないけど、音や声そのものは聞こえてるんだ」

字面からその区別をつけたところで、なんなんでしょうか?

「聴こえている」人は、「この人は音や声自体は耳から入って来てるんだから、まだましだ」、「聞こえない」人は、「音や声が耳から入ってすらこないなんて、どうしようもないんだな、かわいそうに」ということ?

はたまた「あなたは”聞こえてる”から、聴覚活用ができるはず」とか「補聴器や人工内耳をつけると”聴こえる”ようになるはず」と言うチャンスをうかがっているのでしょうか?

「聴こえて」ても聴覚活用をしたいと思わないとか手話で喋りたいと思う人もいるし、「聞こえな」くても聴覚活用がしたいとか声で喋りたいと感じている人もいるし、「聞こえない」ことをつらいと思う人もいればそうではない人もいるし、「聴こえない」けど「聞こえる」ことをよかったと感じている人もいれば逆につらいと感じている人もいるし、とにかく、きこえの程度と本人の意識と適切な接し方なんて実際は全然定義づけなんてできないものじゃないですか?「聴こえない」「聞こえない」どっちだろうが、本人がどう感じているのか、どうしたいのか、どうしてほしいのかをきちんと見極めるべきという部分は変わらないですよね。

なんでそこまで表面的な書き分けに執着し、ラベリングしようとするのか、私にはよくわからなくなってしまいました。

「聴者」という言葉はあるのに「聞者」という言葉がないのは、聴者とろう者を隔てる基準が日本語的には「聞こえているかいないか」ではなく、「聴こえているかいないか」の部分にあるからですよね。

だとしたら「”聴”者」と対になる存在として「”聴”こえない人」とするのって、そんなに不自然な考え方でしょうか?

私は今後も芙美子のようなキャラクターを描く場合は「耳が聴こえない」という表記を使います。間違っていると思われるならそれでもいいです。確かに日本語としては間違っているので。

ただ、私としては「聞」と「聴」この2つの字の書き分けに執着する考え方、「耳が聞こえない」と書かないとおかしいから直せと言われる考え方とは、相いれないということです。

また、作中ではもうひとつ、ひらがなで「きく」という表現を使っている箇所があります。これもあえて使っているもので、上述の2つの書き分けのどちらにもあてはまらない時に使っております。どちらにもあてはまらないって、どういうことなの?と思われるかもですが、それはもしよかったら本編を読んでみてもらえたら嬉しいです。

その他、内容についての話

思っていたほどそんなに色々ああしてくださいこうしてくださいみたいなことは言われることなかったのですが、ひとつだけ印象的だったのは特に前編の図書館のシーンについて「聴者を悪く描きすぎていないか?」という指摘があったことです。

これはねえ…。まあ、言いたいことはわかりますよ。
読者の多くは聴者ですから、自分に近い存在の人々があまり良くない印象として描かれているとなんだか責められているような気になってしまいますよね。商業漫画として、それはちょっとまずいかもという。

でもね、恐らくろう者側の視点から見てみると、「悪く描きすぎている」なんてことはなかなかありませんから。はっきり言います。思い違いです。むしろ、デフォルトの状態が聴者に都合よく描かれすぎており、それに多くの聴者が慣れきってしまっているというだけだと思います。

これまでの歴史の中で、聴者の社会がいかにろう者に対して不誠実な態度をとってきたのかということ、そして現在でもその本質的なところは大きくは変わっていないということを鑑みて、正直、悪く描きすぎていると思われるくらいでちょうどいいのではという判断に至りました。結局そこまで大きく変更することなく載せていただいて、本当にありがたかったです。


おわりに

最初は前後編のつもりで作り始めたものが最終的に120ページ超の全中後編になり、短期連載という形で載せていただくことになりました。

しかし、これだけのページ数をもっても描ききれなかったことのほうが多いです。具体的に言うと、芙美子の過去については『僕らには僕らの言葉がある』で描かれた姿と今回の『私たちが目を澄ますとき、』で描かれた姿の間には、ある大きな空白があります。どっちも読まれた方はおそらく気づかれたと思いますが…。

ある日を境にわずかに残っていた左耳の聴力も失い完全失聴となったあと、「難聴者」としての人生から「ろう者」としての人生を生きなおすことになっていく芙美子と、その中で袂を分かつことになった実の両親、そしてともに聴者でありながら、今よりもさらに聴覚障害に対する偏見や差別が強かった時代に彼女をろう者へと育てたもう一組の両親たちの物語を機会がまたあったらぜひ描きたいなと思っています。(これはどう考えても前後編では終わらないと思うけど…)

『僕らには僕らの言葉がある』もまだまだ続けて描いていきますので、ぜひ応援してもらえると嬉しいです。よろしくお願いいたします。

2023.10 詠里


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