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【世界史】ビザンツ帝国のカタフラクトについて

はじめに

「…こうして霧がはれ、真夏の太陽が草原にあがると、マグネンティウスはいままでみたこともない装甲騎兵隊が、無数の長槍を輝かせながら、不気味にしずまりかえっているのを見いだしたのだった。それは単に騎兵だけが装甲しているだけではなく、馬たちにも同じようにすっぽりと装甲しているのであった。(中略)正午近くになって、歩兵の一人が顔をあげ、眼の前の黄色い花を摘もうとした。そのとき彼は突然地鳴りに似た音を聞き、驚いて眼をあげると、重装騎兵の軍団が砂煙をあげて進撃する姿を見たのだった。それは錐を突き刺すときのように、三角陣形で突っこみ、マグネンティウスの軍団の厚い壁を切りさいた。サクソン軍団は長槍と装甲馬の蹄に蹴散らされ、どっと後退した。重装騎兵の軍団が突撃したあと、敗走する敵を追って、後陣に控えていた軽騎兵軍団が鋭い太刀を振いながら電光のように疾駆した。…」

どうもこんにちは!Eins1期の黒田です。
上の文章は小説家にしてフランス文学者である辻邦生氏による歴史小説『背教者ユリアヌス』の一節で、351年にローマ皇帝コンスタンティウス2世と僭称皇帝マグネンティウスとが戦ったムルサの戦いを描いたものです。ここには3世紀ごろから徐々にローマ帝国でも使われるようになった重装騎兵カタフラクトκατάφρακτοςの活躍が端正な文体かつ迫力を持って描写されています。カタフラクトは元々はパルティア・ササン朝ペルシアやサルマティア人といったローマ帝国の東に位置する国や民族が用いていましたが、彼らとの接触に影響を受けたローマ帝国でも次第に使われるようになりました。そして時代を経ること600年、その間にローマ帝国の元でカタフラクトは活躍したりしなかったりと紆余曲折を迎えますが、10世紀になると(通常5世紀以降のローマ帝国のことをビザンツ帝国と呼びますので以下そのように呼称します)その黄金期を迎えます。マケドニア朝(867~1056)と呼ばれる一連の有能な皇帝が続いた時代の中で国力を伸長させたビザンツ帝国は次々と戦争を行い失われた領土を取り戻しにかかりますが、カタフラクトはその戦いの中で存分に用いられ、数多くの勝利を帝国にもたらします。中でもここで重要なのは現在のイラクからシリア北部を支配していたイスラーム王朝ハムダーン朝との戦いです。「王朝の剣」と呼ばれた勇将サイフ・アルダウラのもとで最盛期を迎え領土を拡張していたハムダーン朝とこれもまた勇将ニケフォロス2世フォカスに率いられたビザンツ帝国は激突し双方の国境があった現在のトルコ西南部にあるタウルス山脈付近で熾烈な戦闘を繰り広げました。そしてこの戦いの経験から生み出されたのが兵法書Praecepta Militaria(以下PMと略称)です。この兵法書の中には重装歩兵の運用の仕方や野営地の作り方など大変興味深い内容が多く含まれているのですが、特に本稿で欠かせないのがカタフラクトの運用の仕方についてになります。私の知る限り、カタフラクトの運用の仕方を兵法書という形で指揮官の目線から残したのはビザンツ帝国しかいないため、この史料は大変貴重なものです。ここではこのPMを通して10世紀その最盛期を迎えていたビザンツ帝国で同じく黄金期を迎えていた重装騎兵カタフラクトがどのような装備や隊列を組んで、運用されていたのかということを垣間見ていきたいと思います。

Praecepta Militariaについて

まずは本稿で用いることになるPraecepta Militariaについて確認しましょう。この本はギリシャ語でΣτρατηγική ἔκθεσις καὶ σύνταξις Νικηφόρου δεσπότου、すなわち『皇帝ニケフォロスの軍事に関する論文と著作』と言い、その名の通り皇帝ニケフォロス2世に捧げられた、あるいは彼自身によって書かれた兵法書です。タウルス山脈以東のイスラーム勢力に対して兵を率いる将軍に向けて書かれたこの本は6章に分けられ、
第一章:歩兵について Περι πεζῶν
第二章:重装歩兵について Περι τῶν ὁπλιτῶν
第三章:カタフラクトについて Περι τῶν καταφράκτων
第四章:騎兵編隊の配置について Διάταξις περι καβαλλαρικῆς συντάξεως
第五章:軍野営地について Περι ἀπλήκτου
第六章:スパイについて Περι κατασκόπων
となります。この中でも本稿にとって特に重要なのは第三章と第四章です。
さて、私たちはこの本から実際どのようにカタフラクトが運用されていたかを知りたいわけですから、この本はどれくらい現実、実戦を反映していると言えるのでしょうか?
PMを英訳し、それに詳細な注釈をつけたEric McGearはこの本を同じく10世紀に書かれたSylloge Tacticorumという兵法書(この本自体は9~10世紀の皇帝レオ6世の指示で書かれた兵法書であり内容のかなりの部分がさらに過去の兵法書をオマージュしたものとなっています)と比較してよく似ているが多くの箇所で細部が異なることを指摘しています。例えばカタフラクトの章でSylloge Tacticorumがカタフラクトの防具のある箇所で鉄を用いよと述べたのに対してPMでは革を用いよという述べられています。あるいは重装歩兵の中でも選りすぐりの兵が用いるメナウラ(μέναυλα)という槍の作成方法についてSylloge Tacticorumよりも詳細に書かれています。このような仔細な違いが全編に渡る以上PMはSylloge Tacticorumをベースにしながら著者がその実戦経験の中で学んだことと削ぐわない箇所があった場合はあるいは削ぎ落とし、あるいは書き換え、あるいは補足したとEric McGearは述べており、そのためPMは実戦に即して書かれた史料であると考えることができます。
ただしそうは言ってもPMに書かれていることは一つの理想であり、実戦ではここに書かれているようにうまくいかなかったことも多いでしょう。事実PMには「もし兵員が十分にいない場合は…」や「汝が良いと思うやり方でなせ。」などここに書かれていることに固執しないように促す表現が多く見られます。19世紀のプロイセン軍人カール・フォン・クラウゼヴィッツは気候や敵軍の状況など戦場の不確定要素を「戦場の霧」と定義しましたが、この戦場の霧は古今東西普遍的なものであり10世紀の戦場にもかかっていたことは疑いようがありません。そしてそれゆえPraecepta Militariaで書かれていることは実戦に裏打ちされてはいるもののあくまで一つの「理想」であり、現実には思い通りにはいかず、その都度その都度柔軟に対応していく必要があったということを念頭において私たちはPMを読み進めていく必要があります。

Praecepta Militariaの成り立ちやSylloge Tacticorumとの関係のより詳細な議論についてはEric McGear, "Sowing the Dragon's Teeth: Byzantine Warfare in the Tenth Century"p.184-188を参照。

カタフラクトの隊列・装備について

隊列について


まずカタフラクトの隊列についてみていきます。カタフラクトの隊形はPMでは三角形として紹介されていますが、むしろ台形に近いでしょう。もし十分な人員が確保できる場合、カタフラクトは504騎からなる部隊を形成します。すなわち最前列に20騎、2列目に24騎、3列目に28騎...と列を重ねるごとに4名ずつ増えていき、これを最後列の12列目に64騎となるまで繰り返します。もし十分な人員が確保できない場合は384騎の部隊を形成し、この場合最前列に10騎、2列目に14騎、3列目に18騎...12列目に44騎となります。またこの504騎・384騎という数はあくまで目安であり、PMでは人員が過多・過少の場合は最前列と最後列の騎数を調整し後列にいくごとに4名ずつ増えていくというパターンは守るように述べられています( P.M. III 1-26)。
また5列目以降は弓騎兵を混ぜることが指示され、その割合は全体が504騎であれば、弓騎兵は150騎、384騎であれば80騎と定められます。彼ら弓騎兵とカタフラクトが足りずに部隊に混ぜられることのある軽騎兵は隊の内側に置かれ、突撃を援護する役割を果たしました。また各列には1騎ずつ、人数が多い列であれば2騎ずつ列をまとめる士官が配置され、部隊全体は1名の司令官によって統括されることとなっていました。隊列についてまとめた図は以下のようになります。

出典:Sowing the Dragon's Teeth: Byzantine Warfare in the Tenth Centuryよりp.287

装備について

甲冑についてまずPraecepta Militariaの該当箇所(III. 28~45)を見てみましょう。

「兵士それぞれはクリバニオンκλιβάνιονを着用しなければならない。クリバニオンには肘まで届くマニキアμανίκια(ローマ軍やビザンツ帝国軍の鎧の肩部分についているヒラヒラ、下画像参照)がなくてはならない。肘より下はマニケリアμανικέλια(籠手)を着用しなくてならず...(中略)。クリバニオンの上には絹か木綿のエピロリカἐπιλώρικα(日本でいう陣羽織、西欧でいうSurcoatのようなものです。)を着なければならない。(中略)彼らは鉄の兜、それも二重あるいは三重のザバスζάβας(鎖帷子、下画像参照)によってただ目だけが表れるように補強されたものを着けなければならない。また彼らは脛当ても着けなければならない。」


ビザンツ帝国のクリバニオンと兜
画像はミハイル8世さま(x: @Romaioi)が作成したものを
許可をいただいてお借りしました!

以上の記述よりカタフラクトはその名の通り全身を守ることのできる(カタフラクトの語源となったκαταφράσσωは守る、要塞化するという意味があります)、非常に堅牢な甲冑を身に纏っていたことがわかります。その装甲の効果はバシレイオス2世に仕え、バルカン半島やシリアでの戦いで活躍したニケフォロス・ウラノス将軍が記したとされる兵法書『タクティカ』に端的に書かれています。

「されば敵歩兵の槍は我々のカタフラクトにより砕け散り、彼らの矢や投槍兵が用いるメナウラ(μέναυλα)はカタフラクトの鎧によって無効化されてしまう。」TNO57.147-152

ビザンツ帝国のクリバニオン・ロリキア等の鎧についてのより詳細な議論はTim Dawsonの "Kresmata, Kabadion, Klibanion: Some aspects of middle Byzantine military equipment reconsidered"を参照。

また馬の防具については以下の通りです。

「彼らは目と鼻以外膝まで全てを覆いフェルトあるいは茹でた革を縫い合わせた鎧を付けた頑丈な馬を有していなければいけない。また膝下と馬の下腹部については覆われて隠されないようにしなければいけない。あるいは馬の足の動きを邪魔することのないように足の部分と下腹部で分割されたバイソンの皮を馬の肩からかけることもできる。」

次は彼らが用いた武器について見ていきましょう。

「彼らは矢を防ぐために盾を持っていなければいけない。」PM. III.45~46

「カタフラクトは以下の武器を持つべきである。三角、四角、六角の鉄の頭部を持ったメイス(σιδηροραβδία)あるいはその他の鉄のメイス、もしくはサーベル(Παραμήριον)を持っていなければいけない。全員が剣(σπαθία)を持つ必要がある。彼らは鉄メイスあるいはサーベルを手に持ち、予備の鉄メイスをベルトかサドルから下げなければいけない。第一列、それというのは隊の前のことであるが、と第2列、第3列、第4列は皆同じ装備を持たなければいけない。しかし第5列以降は両端を以下のようにしなければいけない。一人は槍をもち(κονταράτος)、一人はサーベルを、そうでなければメイスを持ち、最終列までこのようにすること。」PM. III. 53~60

後半の第5列目以降の話は読んでいてもわかりにくいかと思いますので、上の隊列の図を参照してください。
さて、この手の重装騎兵は槍を主な武器として用いることが多い印象でしたので、メイスをビザンツ帝国のカタフラクトが主武装として用いていたことは興味深く感じます。騎兵の装備についてはよく知らないのであまり深掘りすると墓穴を掘りそうですが、敢えて私見を述べるならばまず前者のメイスを主武装にしていたことについて、やはりメイスがカタフラクトの戦い方と合致していたためこの武器が選ばれたのかなと思います。後により詳細に書きますが、ビザンツ帝国のカタフラクトは敵の歩兵隊を粉砕してその指揮官を討ち取ることで敵軍全体の士気を崩壊させることを目的としてました。そして突撃する際の速度も隊を乱さないように控えめに行われており、私たちが小説や映画からイメージするような全速力で敵を突破するというよりかは一定の速度で敵陣に突入し、突入してからは敵と戦闘しながら力ずくで敵部隊を突破するようなものだったのかもしれません。このことを示唆する記述がニケフォロス・ウラノスの『タクティカ』に記されています。

「そして(彼らが突入に成功した後)、カタフラクトは勇気と大胆さとを持って敵と敵の馬(歩兵部隊の後ろに控えている騎兵のものだと思われます。)の頭と体をメイスやサーベルで打ち砕き、敵陣を破って寸断して、そこからさらに敵陣に入り込み完全に敵を撃滅してしまう。」TNO. 61. 209-214

突入してからも激しい戦闘を行わなければいけなかったカタフラクトにとっては槍よりはメイスの方が好ましい武器だったのかもしれません。なぜなら槍は戦いの途中で折れてしまう可能性があるからです。そしてこのことは決して珍しいことではなかったと思われます。イランのペルセポリス近郊にあるNaqsh-e Rostamにあるササン朝とローマ帝国との騎兵同士の戦いを描いたレリーフには突撃の衝撃で折れてしまった槍が描かれています(下の画像参照)。近世のポーランド騎兵フサリアなどは逆転の発想で槍は折れる前提として突撃したら本陣に槍を補充しに戻り、また突撃を繰り返す戦術をとっていたようですが、カタフラクトはそのまま敵陣の中で戦い続けなければいけず、槍が折れてから他の武器に持ち替えるのにも時間がかかるでしょうからそれならば最初から近接戦用のメイスを持たせようという発想なのかもしれません。

Cobain / Public Domain
Nash-e Rostamにある騎兵戦闘のレリーフ。右のローマ騎兵の槍が折れていることに注目。

カタフラクトの運用について


カタフラクトはもっぱら野戦で運用されていました(ここでいう野戦とは軍と軍が平野で正面衝突する一般的にイメージされるであろう戦いです)。そして
彼らはここぞという時に戦いに投入され、戦局をそれによって変える戦場の切り札でした。その突撃は敵の司令官がいると思われる場所を正確に狙って行われ、その前にいるであろう歩兵隊や護衛兵を力ずくで突破し、敵司令官を討ち取ることを目的としていました。しかしSmailが十字軍についての著書で述べたように中世の重装騎兵は突撃の号令を出された後はもう指揮することができない「指揮官にとって飛び道具のごときもの」であり、ただ一度の突撃で敵を粉砕することが要求されます。これはカタフラクト含むビザンツ騎兵であっても例外ではなく、事実Praecepta Militariaにはカタフラクトが突撃した後にどのように隊を再編し再突撃するかという記述が欠けています。ではこのたった一度の攻撃をどのように使えば最大限の戦果が得られるか。ビザンツ帝国はカタフラクトの突撃に際してその他の騎兵部隊を有機的に協働させることでこの課題を達成しようとしました。このためカタフラクトの運用について学部にはまずビザンツ帝国が野戦に際してどのように騎兵全体を活用しようとしていたか、そしてカタフラクトはその全体の中でどこに位置付けられるかということに注目する必要があります。以下ではそのことを念頭におきながらカタフラクトの部隊運用に焦点を当てていきたいと思います。

騎兵全体の陣形について

まずは騎兵全体が野戦で攻撃時にどのような隊形を組んでいたかを見ていきましょう。次の写真を見てください。

出典:Sowing the Dragon's teeth: Byzantine Warfare in the Tenth Century よりp.282

これが攻撃時に軍の騎兵が組むべき陣形です。

まず一番前で散らばりながら配置されているのはプロクルサトレスπροκουρσάτορεςという軽騎兵です。彼らはビザンツ帝国軍において非常に幅広い役割を果たし、野戦軍の中では偵察を行ったり、会戦前に前哨戦で敵の戦力を削いだり、あるいは逃げた敵を追撃したりする役割を担いました。(ビザンツ帝国のより詳細な軽騎兵の運用についてはPMとほぼ同時期に書かれた防衛戦の指南書、De Velitatione Bellicaを参照。)
そして1列目に配置されているのは左から順にFlankguard (πλαγιοφύλακες)、騎兵大隊、カタフラクト隊、騎兵大隊、Outflanker(ὑπερκεραστάς)になります。Flankguard(適当な和訳を思いつかなかったので英語そのままにしています)とは自軍の側面が包囲されることを防ぐ部隊であり、逆にOutflankerとは敵軍を側面から包囲する部隊です。両者とも100騎ほどの部隊でありうち大半が弓騎兵で一部が槍騎兵で構成されることとなっていました。なぜ最左翼に配置された部隊が防衛を、最右翼に配置された部隊が攻撃を担当したかというとこの部隊の大半が弓騎兵だったからです。現在の弓道でもみられる通り弓を射る際は通常左手に弓を持ち、右手で弦を引きますが、この関係で弓騎兵は自分の右側に弓を射ることを苦手としました。そのため敵を攻撃する際は常に自分の左側に敵がいることが望ましく、故に最右翼に攻撃を担当するOutflankerが配置されました。また敵の弓騎兵も同じ理由で彼らから向かって右、つまり自軍にとっては左から攻撃を仕掛けてくるので最左翼には敵によって側面から包囲されることを防ぐFlankguardが配置されたという訳です。騎兵大隊は500騎からなる部隊でそのうち300騎は槍騎兵、200騎は弓騎兵で構成され、200騎と100騎の槍騎兵の間に200騎の弓騎兵が挟まる形で編成されました。1列目に置かれている2つの騎兵大隊はカタフラクトをサポートするのがその役割であり、その配置はカタフラクトとの間に隙間があくように、そしてカタフラクトの最後列とこれらの騎兵大隊の最前列が重なるようにと指示されています。その2列目に配置されているのは4個騎兵大隊です。そして2列目の騎兵大隊の隙間の後ろに配置されたのが3列目の3個騎兵大隊です。これより後ろには補給物資(おそらく水や食料、矢など)を積んだ荷馬車とその護衛として騎兵300騎が置かれました。

カタフラクトの運用について


カタフラクトを実戦で運用するにあたってまずはカタフラクトがその目標とする敵指揮官の所在を明らかにしなければいけません。そして敵指揮官の所在が判明したら、そこに狙いを定める形でカタフラクトを配置します。その脇には先に述べた形で2個騎兵大隊が置かれ、同時にOutflankerが敵の後ろに回り込むべく包囲を開始します。プロクルサトレスはカタフラクトの左右の側面をカバーする位置に置かれ、もし敵の騎兵がカタフラクトの妨害にきた場合はこれを阻止する役目を果たしました。これはPMの後段に書かれている敵のカタフラクトの対処法と比べると面白いかもしれません。

「もし敵が全く同じような武装をしたカタフラクトを持ってきて我が軍のカタフラクトと騎兵に攻撃をしてきた場合、3列目の3個騎兵大隊を2列目の4個騎兵大隊の隙間を通る形で前進させこれを包囲する。そして敵カタフラクトが両側面から包囲されれば、主の御加護によって敵は敗走するだろう。」PM. IV. 166-171

カタフラクトはその甲冑の重さによる低い機動力、また効果的な突撃を行うには一糸乱れぬ隊列が要求されたことからこのような撹乱に脆弱であったと思われます。敵軍も自軍のカタフラクトに対して同じことをしてくる可能性が高かったためカタフラクトの両側面をプロクルサトレスによって護衛することで敵騎兵の攻撃からカタフラクトを守ったのでしょう。さて、カタフラクトが整列し、援護の2個騎兵大隊も準備を終えたらいよいよ突撃です。

「敵がまだその陣形を保持し、そして我が軍が攻撃を開始した時に敵の矢がカタフラクトに対して射られ始めたら、こちらの弓騎兵(カタフラクトの三角形の陣形の内側にいる部隊)は敵に対して矢を放って反撃する。そしてカタフラクト隊はその陣形を崩すことなく駈歩の速度(βῆμα τρίποδος)で敵指揮官の位置に突撃し、その間Outflankerは敵を可能な限り包囲し、援護の2個騎兵大隊はカタフラクトの後列に完璧な精度と均一性で前進しすぎることも隊列を乱すこともなく合わせて前進する。そして神の御加護と彼の穢れなき聖母の執り成しにより敵に打ち勝ち、敵は???によって敗走する…」PM. IV. 137-149

残念ながらPMはこれ以降数行にわたり欠損箇所が続き、何が書いてあるか不明な状態であるため、欠損箇所はPMを参考にして書かれたニケフォロス・ウラノスの『タクティカ』を参照して補っていきたいと思います。

「穢れなき聖母の執り成しによる神の御加護により、敵は三角形のカタフラクト隊によって敗走する。なぜなら敵の槍とメナウラはカタフラクトによって粉々にされ、矢は鎧の前には無意味だからである。そしてカタフラクトは勇気と大胆さとを持って敵と敵の馬の頭と体をメイスやサーベルで打ち砕き、敵陣を破って寸断して、そこからさらに敵陣に入り込み完全に敵を撃滅してしまう。そして敵が撃破された時、カタフラクトはそれを追撃することも、隊形を崩すこともしてはいけない。そしてカタフラクトの両脇にいる騎兵大隊もまた追撃を行ってはいけない。プロクルサトレスとOutflankerだけがこれを追撃し敵を屠るべきである。」TNO. 61. 204-219

以降、PMの記述に戻って続きを確認しましょう。

「そしてもし敵の敗走が続くようであれば、カタフラクトの両脇にいる騎兵大隊も追撃を開始する。また2列目の4個騎兵大隊の後ろにいる3個騎兵大隊も2列目の隙間を通って前進して敵の追撃に加わり、カタフラクトは落ち着いて自身のペースを保って前進する…」PM. IV. 150-158

この後はいかに敗走した敵を追撃するかという話が続き、追撃に際してカタフラクトは特に用いられないためここでは割愛します。ともかく以上のPMと『タクティカ』の記述にはカタフラクトの運用について個人的に興味深い点があります。
それは「敵がまだその陣形を保持しそして我が軍が攻撃を開始した時に…」という箇所です。わざわざ「敵がまだその陣形を保持し」と述べていることは、敵軍がその陣形を保っていないこともあったのでしょうか?私にはそういうことがあったのではないかと思われます。そう思う理由の一つ目はビザンツ帝国が野戦をする前に周到な情報収集により敵の状態を探り、もし敵が自軍よりも優勢、あるいは同等な戦力を保持していて、また士気で負けている場合戦うことを避けていたからです。

「最初にスパイ、逃亡者、捕虜によって敵軍の数、そして何にもましてどのような装備を持っているかを探らなければいけない。もし敵軍が歩兵と騎兵双方で我が軍により数で圧倒的に勝るようであれば、野戦と接近戦を挑むことを避け、計略と奇襲とによって敵軍を傷つけなければいけない。敵に野戦を挑むのは神の助けとともに、敵軍が一度、二度、あるいは三度逃げ、損害を与えられて恐怖心を抱き、他方我が軍が自信と勇気を持っているときである。」PM. IV. 192-203

ビザンツ帝国は野戦を行う前に敵に対して綿密な偵察と情報収集を行い、また奇襲や軽騎兵を生かして敵軍の兵力と士気を削いでから野戦に臨むことを望ましく考えました。そのためカタフラクトが戦場で戦うことになる敵は度重なる攻撃を受けてすでに士気が低下していた状態であったことが考えられます。
そして理由の二つ目はカタフラクトが敵に与えたであろう心理的恐怖です。馬から乗り手まで鎧で身を固めたカタフラクトは対面した敵に強烈な印象を残したことは想像に固くありません。カタフラクトについては多くの歴史家が記録を残していますが、中でもササン朝ペルシアのカタフラクトと戦ったローマの歴史家にして軍人アンミアヌス・マルケリヌスは以下のように綴っています。

「そして歩兵の間には完全に鎧に覆われた騎兵がいた。全員顔を覆った兜を被り、胸甲と鉄でできたベルトを着けており、人ではなくプラクシテレス(古代ギリシャで最も著名な彫刻家)の手による彫刻かと見間違えてしまうほどであった。」Ammianus Marcellinus. 16.10.8

またビザンツ帝国はカタフラクトが相手に与える恐怖を最大限にするための工夫を施していました。それはPMの以下の記述に見ることができます。

「そして敵に対して、事前に決められたペースで一切動揺を見せることも音を立てることもなく前進する。」PM. IV. 109-112

ビザンツ帝国は行軍する際に軍が一切の音を立てずに静けさを保つことを大変重視しており、その理由の一つに敵を恐れさせるためという理由がありました。6世紀に書かれたビザンツ帝国の最も代表的な兵法書『マウリキウスのストラテギコン』では以下のように論じられています。

「軍がより静かであれば若いものがより動揺せず、馬は興奮しない。そして敵には我らの戦列がより恐ろしく見え、また命令がより伝わりやすくなる。このため軍が行動を開始したあと音は一切立てられてはいけない。」Maurice. 2. 17

一切の無音で前進してくる重装騎兵の集団はそれと相対する軍に大きな恐怖を与えたでしょう。そしてその前の前哨戦で敗れて士気が低下している段階ではなおさらであり、あまり訓練されず練度も高くない軍であればカタフラクトが進軍してきたのを見ただけで撤退、あるいは敗走してしまうこともあったのではないかと思われます。

最後に

ビザンツ帝国は10世紀マケドニア朝の元での黄金期に積極的な外征を行い大きな成果を収めましたが、その成功にはカタフラクトの存在が欠かせませんでした。しかし同時にカタフラクトは活躍する場がいささか限定的な兵種でもありました。敵軍と自軍とが激しく激突する野戦の場、それも騎兵突撃を行うのに最適な平野でしか用いることができず、そしてビザンツ帝国は野戦を自軍が優勢でもない限りなるべく避けましたから、帝国が守勢に回った時カタフラクトの活躍の場は激減したことでしょう。そのため6世紀から9世紀の帝国がまだ防衛側にあった時代にはカタフラクトはほとんど運用されず槍と弓を持ち、機動力が削がれない程度に鎧を身に纏った幅広い任務をこなすことができる騎兵が好まれました。そして11、12世紀になると敵の変化、カタフラクトの高い運用コスト、そしてノルマン人などの外部からの傭兵の増加によりカタフラクトは減少していったと思われます。12世紀にはビザンツ帝国の経済が好転したことから時の皇帝マヌエル・コムネノスはカタフラクトを復活させましたが、その装備や運用は西洋の騎士を真似たものであり、またこの試みは当時の敵が軽騎兵を主体として運用するトルコ人であったため最終的に失敗しました。
以上よりカタフラクトはビザンツ帝国の歴史の中でおそらく10世紀の黄金期にのみ大々的に用いられた兵種であり他の時代ではあまり用いられなかったでしょう。しかし10世紀に彼らが戦場を皇帝とともに駆け巡りその戦いの中で活躍したことは疑いようがありません。頭から馬まで鎧で固めたカタフラクトはビザンツ帝国が戦場で持つ究極の切り札でありその活躍は同時代の歴史書にも克明に記されています。

「皇帝(ニケフォロス2世フォカス)は軍営地から最も勇敢で屈強な兵士を率いて戦場で彼らを隊列ごとに整列させた。カタフラクトは最前列であり、弓兵と投石兵は後ろから敵に対して射撃するように命じた。彼自身は多くの騎兵を率いて右翼に位置どり、ツィミスケスのあだ名をもちドゥクスの爵位を持つヨハネスが左翼に位置取った…(中略)。皇帝が攻撃のラッパを鳴らすように命じた時、ローマ軍は驚くべき精度で行動を開始し、平野全体が鎧の輝きで煌めいた。タルスス人(ハムダーン朝の兵士)はこの攻撃に耐えることができず、槍と後方からの矢の攻撃とによって瞬く間に敗走し、多くの兵士を失いながら不名誉なことに街の中に逃げ込み門を固く閉ざしてしまった。」Leo the Deacon, The History. 4. 3.

以上で本稿は終わりとなります。拙い文章であり大変申し訳ございませんがもし楽しんでいただけたなら幸いです。また何かご指摘・ご質問などございましたら humanite23konstp@gmail.comに連絡をいただきますようにお願いします。
それではまた!


出典:Byzantine Armies 886-1118

参考文献

Primary Sources

・Ammianus Marcellinus, Rerum Gestarum, Translated by John. C. Rolfe. (Cambridge: Cambridge, Mass., Harvard University Press, 1935-1940).

・Leo the Deacon, The History, Translated by Denis F. Sullivan and Alice-Mary Talbot. (Washington D.C.: Dumbarton Oaks, 2007).

・Maurice, Maurice's Strategikon, Translated by Geroge. T. Dennis. (Philadelphia: University of Pennsylvania Press, 1984).

・Nikephoros Ouranos, Taktika. In Sowing the Dragon's Teeth: Byzantine Warfare in the Tenth Century, Translated by Eric McGeer. (Washington D.C.:Dumbarton Oaks, 1995).

・Nikephoros Phokas, Praecepta Militaria. In Sowing the Dragon's Teeth: Byzantine Warfare in the Tenth Century, Translated by Eric McGeer. (Washington D.C.:Dumbarton Oaks, 1995).

Secondary Sources

・Eric McGeer. Sowing the Dragon's Teeth: Byzantine Warfare in the Tenth Century. (Washington D.C.:Dumbarton Oaks, 1995).

・Erich Anderson. Cataphracts. (South Yorkshire: Pen & Sword Military, 2016).

・John Haldon. The Byzantine Wars. (Gloucestershire: The History Press, 2008).

・R. C. Smail. Crusading Warfare 1097-1193. (Cambridge: Cambridge University Press, 2009).





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