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東京石材巡検 実施報告

はじめまして。2期の菫青石と申します。きんせいせきって読みます。

地歴同好会アインズの2期巡検担当を名乗っている人らしいですよ。あと名前から分かるように岩鉱の類、というか地学が好きなようですよ。
ということで、よろしくお願いします。

これが投稿される2/26は、一橋大学の2次試験2日目のようですね。この記事の内容は絶対問題として出ることはないので、もしこれを見ている2023年度受験生の方がいたら、そっとブラウザバックしてご自分の参考書を見ることをおすすめしますよ。試験が終わったら読んでくれると嬉しいです。

さて本題に入りましょう。昨年の11月、地歴同好会アインズで「東京石材巡検」を実施しました。そして実施後にふと巡検内容をこのまま闇に葬るのももったいない気がしまして、記事にすることとしました。ということで、記憶と資料を引っ張り出しながら頑張って書いてみますのでご笑覧ください。

※紙面の都合上、施設の歴史などの説明は触り程度で、石材の紹介がメインとなっております。
※特に断りがない限り、使用されている画像は私が撮影したものです。
※下見中に撮った写真も含めています。


1. 巡検概要

日程:2022年11月12日(土)
集合場所:信濃町駅
解散場所:神田駅
行程:図1参照
歩行距離:約11km
※当巡検は、一橋大学の定める活動ルールに従って実施されました。

東京石材巡検 行程図 (『スーパー地形』GoogleMapを加工の上作成)

2. 概観

2-1. 石材の歴史

石、厳密に言えば岩石は、日本の近代化を支えた重要な資源の一つです。

その歴史ははるか4万年前から始まったとされる石器時代に狩猟ツールの石器として利用されたことから始まります。その後古墳内部、木造建築の基礎、石灯籠や鳥居などとして利用されるものの、古代から中世にかけての日本ではあくまで石は副材としての地位に留まっていました。しかし戦国時代に入って大規模な築城がなされるようになると、城を外敵から守る石垣において石が大規模に利用され始めました。ただこの時点でも、まだ石材を主な建材として作られた建築物は見られませんでした。

そして明治時代、開国に伴い西洋化の波が押し寄せることになると、国産の石材を用いた西洋式建築が日本でも建てられるようになりました。国会議事堂の竣工はその潮流の中でできた石材建築の最高傑作の一つであることが知られていますが、その後大戦を経験した日本では国産石材産業が次第に衰退し、安価な外国産石材による代替が始まりました。現代では、時代によって流行のパターンを変えつつ、国内外問わず多様な銘柄が使用されるに至っています。

当巡検は、特に江戸時代の石垣から現代までの石材利用の一端を見学し、以ってその多様性と歴史を体感するという趣旨のもと企画されました。

詳しい方から見るとツッコミどころが多々ある記事かもしれません。参考文献は最後に記しておきますので、情報のソースが必要な方はそちらの資料を参考にするとよいかと思われます。

2-2. 巡検の行程

まず聖徳記念絵画館や迎賓館赤坂離宮といった大規模な石材建築を見学し、日本近代石材建築の隆盛期を肌で感じます。次に少し歩いた先で、靖国神社の塀から過去の堆積環境を読み取ります。そして江戸城に向かい、近世における石垣の来歴について考察します。続いて丸の内の高層ビルの内外装や東京駅の外装を観察し、戦後から現代における石材の立ち位置を学びます。その後は日本橋エリアに移動し、日本橋や三越本店、日銀など近代日本の有名建築物における石材を観察します。

3. 内容

3-0. 用語・前提知識

石材の種類を示す用語を紹介します。読み飛ばしてもらっても構いません。

石材は、大きく①御影石②大理石③その他 と分類されます。

①御影石は主に花崗岩や閃緑岩、斑糲岩など火成岩の内でも深成岩にあたる岩石ですが、変成岩にあたる片麻岩なども御影石の一種類とされています。マグマが冷えて固まったもの(またはそれが高温高圧で変成したもの)なので、結晶質なイメージです。造岩鉱物の種類とその割合により色が違い、白みかげ・黒みかげ・桜みかげなどがあります。
ちなみに御影というのは、兵庫県神戸市東灘区御影地方で採れる花崗岩の呼称が由来です。

一方、②大理石は主に結晶質石灰岩やトラバーチン(温泉沈殿物などが形成する石灰岩)などですが、変成を受けていない石灰岩、かんらん岩に加水作用が働いてできる蛇紋岩なども大理石に含まれるとされることがあります。言い換えれば、磨いて美しい模様が見られる石材のことでしょう。日本において大理石は高級な石材として扱われることが多い印象です。
ちなみに大理というのは、過去に中華人民共和国雲南省付近に位置した「大理国」で産出する結晶質石灰岩の呼称が由来です。

前者は硬く、後者は軟らかいです。すなわち前者は風化に強いため主に風雨を防ぐ建物の外装や多くの人に踏みつけられる床材に使われ、後者は風化に弱いので建物の内装の壁などに使われる傾向にあります。

③その他にあたるのは、安山岩凝灰岩など、御影石にも大理石にも含まれないものです。これらも使用量が少ないというわけではなく、邸宅や敷地の塀などに多用されています。

なお石材の分類はあくまで岩石を資材として扱う石材産業の視点でなされたもので、化学・地質学的な分類である岩石の分類とは整合性をとれない部分も多々あります。

3-1. 聖徳記念絵画館

信濃町駅からトコトコと歩いてまず最初に向かった先は、聖徳記念絵画館です。

明治神宮外苑の中心に位置するこの建物は、明治天皇と昭憲皇太后の事績を展示する絵画館です。旧青山練兵場跡地に建設が計画され、1919年に着工し、1926年に竣工しました。

聖徳記念絵画館 外観
外装は岡山県万成地区の御影石である「万成石」。ピンクのカリ長石が遠目からも映える

聖徳記念絵画館は、国会議事堂とほぼ同時期に着工されました。国会議事堂の着工は1920年、竣工は1936年ということで、聖徳記念絵画館は国会議事堂より1年早く着工しています。

実は、今引き合いに出した国会議事堂は、近代日本の石造建築に大きな影響を与えています。国会議事堂はご存知のように日本立法を司る最重要施設です。したがってその内外装は立法府に足る立派なものであるべきとの方針が立てられ、全国で建材にふさわしい石材、とりわけ大理石の調査が1910年から(つまり議事堂着工の10年前から)始まりました。

ちなみになぜ建材として石材に力点をおいたかといえば、やはり文明開化以降の西洋化の流れが原因でしょう。木材を中心とした日本の伝統的建造物から石材を中心的に利用した西洋建築へのシフトは、わかりやすく日本の近代化を象徴することになります。

この調査により、日本各地の石材産地が探索されました。成果として、国会議事堂には徳島県産の大理石銘柄が使用された他(阿南市から「答島」「淡雪」「新淡雪」「加茂更紗」「時鳥」、那賀町から「曙」「木頭石」の計7銘柄)、その他全国の50銘柄が使用されました。この調査で発見された多くの銘柄は、当然同時期以降に建造される建物にも使用されます。

こうした流れで竣工したのが、聖徳記念絵画館です。外装は上で示した「万成石」ですが、内装は先述の調査の成果も含まれるであろう大理石の銘柄が使用されています。例としては「菊花」「錦紋黄」「紅縞」「美濃黒」「更紗」「美濃霞」など岐阜県大垣市赤坂産の大理石と「薄雲」「小桜」といった山口県美祢市秋吉石灰岩(秋吉台のカルストは有名ですね)の大理石、その他岩手県白根市産「折壁石」や朝鮮半島産「ベニアラレ」を含めた13銘柄が確認できます。

聖徳記念絵画館 玄関ホール。中央ホール撮影はNGのためこのホールのみ写真撮影。
柱に埼玉県秩父郡皆野町産「貴蛇紋」や岐阜県赤坂産「菊花」などが見られる。
岐阜県大垣市赤坂産「錦紋黄」。当地は金生山の石灰や化石が有名。

このように数多くの大理石銘柄が使用された背景として、大理石には石材以外の用途、すなわち産業用の配電盤としての需要もあったことがあげられます。建材のみの用途で採算がとられていたわけではない、ということですね。

この聖徳記念絵画館と国会議事堂の関係でもうひとつ興味深い話としては、聖徳記念絵画館には国会議事堂にあまり使われなかった岐阜県赤坂産の大理石が多く使われているという事実があります。岐阜県赤坂、金生山は、国会議事堂建設の元請けであった矢橋大理石の持ち山です。したがって、順当にいけば金生山の石材は議事堂に使われるはずです。しかし実際はそうでもなく、聖徳記念絵画館に使用されている―この不均衡がなぜ発生したのかについて文献でははっきりとした答えを出していません。

会員一行は、中の展示を見学した後、地下にある「薄雲」や、フズリナ化石を含む「美濃黒」を観察し石材の美しさに驚嘆しておりました。(え?)

1階ホールにつながる階段。
方解石と思われる白脈を含む石材は埼玉県秩父郡皆野町産「貴蛇紋」
階段側面は岐阜県赤坂産「美濃黒」
「美濃黒」の拡大写真。白い点がフズリナ化石。フズリナは有孔虫の一種で、石灰質の殻をもつ

3-2. 迎賓館赤坂離宮

続いて、広々とした道路を歩いて坂を下り上り、たどり着いたのは迎賓館赤坂離宮です。そしてここでハプニング。
なんとお祭りが開催されており大混雑。待ち時間30~1時間と聞き、行程の破壊を恐れた私は、柵越しの迎賓館を背に解説を行いました。迎賓館に行きたがっていた参加者にはすごい申し訳なかったです。下調べはイベントまで込で考えないといけない(白目)。ということで、私の下見した時の写真を多様しつつお話します。

迎賓館赤坂離宮は、1909年に東宮御所として建てられた宮殿です。第二帝政期のフランスにおけるナポレオン3世のパリ改造計画に端を発するネオ・バロック様式の建造物は日本でこの建物のみです。戦後に御所から迎賓館へと役目を変えつつ、現在では人気の観光スポットになっています。四ツ谷駅から徒歩5分くらいです。

迎賓館赤坂離宮 正面からの写真
迎賓館赤坂離宮 庭園側の写真

この建物の外装には、「真壁石」と呼ばれる御影石の銘柄が使用されています。真壁とは、この御影石が産出する茨城県桜川市真壁町のことです。
建物の随所に、職人に寄る繊細な彫刻が見られますが、大理石に比べて硬い御影石でこのような作品を制作するのは至難の業であると思われます。当時の職人の高い技術力を象徴していますね。

茨城県桜川市真壁町産「真壁石」。繊細な目の御影石

また、庭園への階段には、同じく茨城県の笠間市稲田で産出する「稲田石」らしき石材も使用されていました。JR水戸線の稲田駅では、この稲田石採掘の歴史や石材・岩石・鉱物を展示している「石の百年館」という施設があり、大変興味深いものとなっています。少し歩いたところにある稲田石の丁場も含めてぜひ一度来訪してみてください。

茨城県笠間市稲田産「稲田石」。遠目から見ると白っぽい

この迎賓館赤坂離宮に代表されるように、とりわけ1900年以降、関東地方では茨城県産の御影石が多用されるようになりました。この理由については後ほど説明しますので、頑張ってついてきてくださいね。

この人間、下見で優雅にコーヒーブレイクしていたのである!到底許せない。
(参加者の皆さん、調査不足ですみません)

3-3. 四谷見附

お次のスポットは、四谷見附です。江戸城外堀を甲州街道が渡る先の枡形門(わーっとやってきた敵を袋叩きにする四角い空間を作る門)の跡で、石垣が現存しています。この石垣は1636年に荻藩毛利家が建築したとされ、当時荻藩が所有していた石切丁場である伊豆半島の川奈・富戸付近で産出する伊豆石、中でも神奈川県真鶴町小松原産の「小松石」と呼ばれる安山岩が使用されています。箱根あたりの火山の溶岩が急冷してできたとされます。

四谷見附の石垣

ちなみに上の写真をよく見ると、積み方は切込接ぎで、バラバラの大きさの石を積み上げています。この側面に回り込むと、下の写真のように整然とした石垣に変わります。積み直しによるものでしょうか。

四谷見附の石垣。整然とした並び方

ということで、一行は中央線・総武線を沿った土塁の上を歩きながら、市ヶ谷の方面へ向かいました。

3-4. 四ツ谷駅~市ヶ谷駅

市ヶ谷駅から次の目的地までの道中にあった石材。

アメリカ・ミネソタ州産「ロックビルホワイト」?
と思ったが、片麻岩っぽいし違う?
後ほど紹介する石材のネタバレ
ポルトガル・モンシーク産 霰石閃長岩「モンシーク」?
針状の白っぽい鉱物が霰石

3-5. 靖国神社の塀

市ヶ谷駅を通り過ぎて道なりに進むと、靖国神社、の塀の前に到着しました。今回用があるのはこの塀です!と言ったところ、参加者の苦笑を獲得しました。ガハハ。

さて、その塀がこちらになります。

靖国神社 南方面西側の塀

この層をなすかのような模様の石材は、「房州石」と呼ばれる千葉県の鋸山で産出する凝灰質砂岩です。軽石やスコリアが層を成して堆積してできた地層を、切り取って横から見ている状態です。面白いのは各ブロックの多様性です。

靖国神社の塀 斜交層理?(この写真は微妙ですが、もっとわかりやすいものがあります)

上の写真の房州石では、斜交層理という堆積構造が見られます。指を指している層が、上の層を切るような構造になっていますが、これが斜交層理です。川に流されて地層が堆積した後、水流の方向や強さが変わり、前の層を削りながら新たに地層を成す、これが繰り返されてできる構造です。

他にも、せん断された地層が見られるブロックなど、色々な種類の房州石を観察しました。ちなみに、この「房州石」は、砕いた上で品川台場の埋め立てにも利用されたようです。

地層がスパッと切れている(せん断)

また、靖国神社の大鳥居や敷石には先ほど迎賓館赤坂離宮で言及した茨城県産「稲田石」が使われています。

大鳥居

3-6. 江戸城

さて、続いて向かったのは江戸城です。入ろうとしたら閉園までのこり30分と知り、ドキマギするも、結果は間に合いました。下調べが雑すぎて巡検後に反省会をしました。

今回は、江戸城の石垣に注目してみましょう。

江戸城 石垣1

まず堀の石垣を見てみると、色は大体がグレー、先程四谷見附でみた「小松石」ですね。では次へ。

江戸城 石垣2

城の入り口ですが、伊豆石に混ざって白い石が積まれていますね。ここまで読まれた方ならおわかりかと思いますが、この白い石は御影石、花崗岩です。

江戸城 石垣3

こちらにも花崗岩が混じっています。
では、天守の石垣はどうなっているかというと…

江戸城 天守 石垣

花崗岩でいっぱいです。

ではなぜ天守台だけが白い=花崗岩なのでしょうか?順を追って説明します。

この石垣が積まれたのは、徳川家康が天下普請による江戸城拡張工事を始めた1603年以降のことです。当時、関東圏で花崗岩の産地は知られておらず、花崗岩を手に入れるためには専ら瀬戸内海の小豆島にある花崗岩を舟運によって仕入れる必要がありました。よって、花崗岩で石垣全てを賄うのは難しく、近場の小田原から伊豆半島で採掘される安山岩である「伊豆石」を使用することとなりました。

しかし天守台は江戸城の最も重要な天守の石垣です。したがって、丈夫だが量の少ない天守台に花崗岩が多く使われることになりました。以上が簡単な説明になります。

このような状況は江戸時代の間続きましたが、あることによって関東で花崗岩の調達が容易になりました。それが、鉄道網の発達です。

1889年に水戸線が開業すると、稲田地区などでの大規模な花崗岩体の発見により、これら茨城県地域の石材産業を興す動きが活性化し、1897年には稲田駅が開業。これにより、鉄道に載って茨城県産の花崗岩が東京へ運ばれるようになりました。1888年の山陽本線開業も相まって瀬戸内海の豊富な花崗岩の大量輸送も可能になり、先程の迎賓館赤坂離宮や聖徳記念絵画館を始めとした御影石を使った西洋風建築が建設されることとなりました。

というように、石材産業のダイナミックな変動というのを、東京の建築物から読み取ることができるわけです。

そうして一行は足早に江戸城を去り、サディスティック(?)な丸の内に足を踏み入れます―。

丸の内のビル郡 オシャンですね~^^;

3-7. 将門塚

そろそろ日も沈み始め、疲労が溜まりかけている一行にさらなる試練が待ち受ける―!

将門塚は、御存知の通り日本三大怨霊に数えられる平将門さんの首を供養する塚です。なんか撤去しようとしたら色々あってこの大都会に残っているらしいですよ。怖いですね。

ところで、この将門塚に使われている石材は一体何でしょう。見てみると想像はつくかもしれません。

将門塚

先程石垣で見た「小松石」の中でも最上級の「本小松石」が使われているそうです。香川県産「庵治石」と並ぶ高級石材銘柄で、それぞれ東の横綱、西の横綱と呼ばれているのだとか。ちなみに庵治石は近くのパレスホテル東京に使われています。

3-8. 大手町ビル

丸の内界隈を歩きつつ、大手町ビルに到着しました。
このビルは1958年に竣工しました。1958年というと、ちょうど高度経済成長期の真っ只中ですから、当時の趣向が反映された石材利用がなされています。それがこちら。

大手町ビル 1階 柱はベルギー・ヌービル産「ルージュ・ドゥ・ヌービル・ドゥミフォンス」

注目すべきはこの柱です。この円柱は石材でできており、銘柄はベルギー・ヌービル産「ルージュ・ドゥ・ヌービル・ドゥミフォンス」です。ルイ14世が気に入った「ルージュ・ロイヤル」と同じブロックから採掘されるゴージャスな大理石です。おそらく、改築前から存在していたこの石柱を保存するために再利用されたのだと考えられます。

近年は再開発の中で石材が廃棄されてしまうケースも多いため、このようにうまく現代の建築に調和させているのは好ましいことと言えるでしょう。

その他、温泉沈殿物が層を成したトラバーチンと呼ばれる石材や、ラパキビ花崗岩と呼ばれる15億年ほど前に生成された花崗岩などが見られました。

大手町ビル 1階 トラバーチン
フィンランド・ヴィロラハティ産 ラパキビ花崗岩「カルメンレッド」?

3-9. 丸の内永楽ビルディング

大手町ビルから一旦出て、ビル群の間を縫いながら石畳の上を歩いて行くと、丸の内永楽ビルディングに到着します。ここで見たいのはこの外装。

丸の内永楽ビルディング 外装
ブラジル・エスピリトサント州産片麻岩「ジャロサンタセシリア」

こちらはブラジル・エスピリトサント州産の片麻岩(地中深くで高温中圧環境で生成される変成岩)である「ジャロサンタセシリア」です。

ジャロサンタセシリアには、赤い斑点が見られます。これが、宝石で有名なガーネット、柘榴石です。街の石材の中に宝石があるなんてすごい!って思いませんか?

ちなみにこのあと丸ビルも見学したのですが、飛ばします。

3-10. 東京駅

日が暮れてきました。東京駅です。

「ダイスケ!アレを見てみろ!」「えええええ!!!」「そこで宮川が目にしたものとは!?」
「めっちゃキレイな夕焼けやああああん!!!」

まずは南口のドームを見てみましょう。
読者の皆さんはまず天井を見ると思いますが、我々は下を見ます。なぜならそこに石があるからです。

なぜならそこに いしがあるから

床は、4つの種類の石材をふんだんに使用して、立体感のある格子模様を作り出しています。最も白いのがギリシア・東マケドニア地方ドラマ産「ドラマホワイト」、ベージュがイタリア・ロンバルディア州産「ボテチーノ」、グレーがイタリア・フリウリ=ヴェネツィア・ジュリア州産「グリジオカルニコ」、黄土色がスペイン産「エンペラドールダーク」です。どれもヨーロッパ産の美しい大理石です。

そして外に出て、屋根の国産石材についても触れました。
屋根に使われているのは、宮城県石巻市産の「雄勝石」です。スレートと呼ばれる層状の岩石で、屋根に適しています。

東京駅の丸の内駅舎は辰野金吾による設計で、堅固な作りでした。関東大震災でも影響を受けず生き残りましたが、1945年の東京大空襲で損壊し、ドームを 八角錐に修復して60年が経過しました。そして2003年、丸の内駅舎が重要文化財に指定されると、2007年から復原工事が始まり、20万枚の雄勝石が注文されました。

しかし2011年、東日本大震災で保管倉庫が流されてしましました。石材業者や地元はそこで意地を見せ、2週間で4万5千枚を回収し、結果2012年に東京駅丸の内駅舎の復原が完了しました。そうして、雄勝石産業はその後地域の雇用を支え復興を助けたそうです。

東京駅 丸の内駅舎の屋根

3-11. 日本橋

いよいよ東京石材巡検も大詰め。一気に歩みを進めて、日本橋へと向かいます。

日本橋は1911年に石造りの橋としてかけ直された橋で、今の橋が20代目になります。最初にかけられたのは1603年です。

この橋は言わずとしれた交通の結節点ですが、同時に近代日本の花崗岩産業の集大成でもあります。
先に説明した「稲田石」がアーチ部・上部に、「真壁石」が側面に使われ、橋脚・基礎には山口県周南市黒髪島産御影石「徳山石」、高欄には岡山県笠岡市北木島産御影石「北木石」が使われており、御影石オールスター揃い踏みといってもよいでしょう。

日本橋(下見の写真なので明るい)
こんな感じだった

3-12. 三越日本橋本店

次に一行がたどり着いたのは、1896年に建設された老舗百貨店、三越日本橋本店です。

この建物は1923年の関東大震災による激甚な被害をに遭いましたが、その後の新建築ブームの中で、外装には「北木石」を使いつつ、イタリアの「ボテチーノ」「ロッソベローナ」「ベルリーノロザート」「グリーンチポリーノ」、ポルトガルの「ローズオーロラ」などの海外産大理石をふんだんに使用し、山口県の「霰」「薄雲」「長州オニックス」、埼玉県の「貴蛇紋」、徳島県の「時鳥」といった国産大理石も併用した大規模な石材建築となりました。

「淡雪」?対称になるように組まれているのは設計か、職人の遊び心か?
「時鳥」?のエレベーター

そして、最も我々の童心を刺激したのが、中央ホールのイタリア産大理石「ベルリーノロザート」でした。

中央ホール。クリスマス的なアレのイベントだった。オルガンの演奏も聴けた
イタリア産「ベルリーノロザート」

なぜなら…

アンモナイト!

アンモナイトを発見できるからです!巻き巻きした形はアンモナイトの化石の断面。これだけでなく、他にもたくさんの化石が眠っています。普段は枠で囲われてどこにアンモナイトがあるかわかりやすくなっているそうなので、時間があれば探しに行ってみましょう!

2-12. 日本銀行

長いようで短かった石材巡検も最後のスポットです。日本銀行は誰もが知っている日本の中央銀行ですね。

日本銀行(下見の写真なので明るい)

この建物で面白い話がひとつあります。写真の1階と2階を見比べてみてください。何となく色が違いますね。
これは実は気のせいではなく、石材の種類が実際に異なるからなのです。1階には先程の御影石である「北木石」、2階には神奈川県湯河原町産のデイサイト(花崗閃緑岩)である「白丁場石」が使われています。

なぜこうなったかというと、日銀旧館が建てられた1896年当時、1891年の濃尾地震の記憶が鮮明だったからです。濃尾地震の被害を見て、石材建築で耐震性をより高めるにはどうするべきか模索された末、2階部分の軽量化のために軽く加工しやすい「白丁場石」が選ばれたという経緯らしいです。

変動帯に位置する日本では耐震という問題は非常に大きな課題ですが、既に当時から様々なアイデアがあったというわけですね。

一行はこれで見学スポットを歩き終え、神田駅にて解散しました。お疲れ様ですた~!

4. おわりに

ということで、東京石材巡検の大まかな内容を書いてみました。

石材というのは冒頭でも書いたように、非常に重要な建材のひとつであることは疑いようもありません。しかし、記録が十分にとられず、銘柄不明のままとなっている建築石材は数多くあります。こういったものを同定していく研究は、過去の日本における経済や社会を理解する大きなツールのひとつになることは間違いないでしょう。本記事を読んで、少しでも石材の重要性、ないし魅力、美しさが伝わっていれば幸いです。

さて、いつのまにか10000字を越えそうで少し怖いんですが、これでもまだまだ書き足りないことがたくさんあります!紙面と体力的にキツイので今日はこれくらいにしておきますが、機会があれば小ネタ的に石材ネタを書いてみたいですね。外国産石材と世界史で結び付けられたら弊サークルっぽいですかね?

「地歴同好会アインズ」というサークルは、The・地理!The・歴史!な趣味の方から僕のようなはぐれ者まで多種多様な人間により構成されるサークルですので、新入生の方はお気軽に参加してみてください。ご自分の趣味と合う会員がいるかもしれないですよ(あと石材とか地学とか好きな方も来てね…私のガバガバ研究を殴りに来てください)。

ということで!本日は以上となります、読んでいただきありがとうございました!またお会いしましょう!

5. 参考文献

・乾睦子『都内の建築石材を巡る』(第73回地学団体研究会総会(東京)講演要旨集・巡検案内書,2019-a,117頁~124頁)
・乾睦子『瀬戸内海沿岸の花崗岩石材産地と近代以降の石材産業』(日本地理学会発表論旨集,2014)
・西本昌司『東京「街角」地質学』(イースト・プレス,2020,199頁)
・日本石材史編纂委員会『日本石材史』(日本石材史編纂委員会,1956,563頁)
・全国石材工業会『大理石・テラゾ五十年の歩み』(全国石材工業会,1965,135頁)
・小林三郎『稲田御影石材史』(稲田石材商工業共同組合,1985 ,340頁)
・明治神宮外苑ホームページ(最終閲覧日:2023年2月26日
http://www.meijijingugaien.jp/history/chronology.html)
・乾睦子『聖徳記念絵画館に使用された国産建築石材』(月刊 地球/号外 No.66,2016,51頁~62頁)
・工藤晃・大森昌衛・牛来正夫・中井均『新版 議事堂の石』(新日本出版社,1999,158頁)
・石田啓祐・早渕隆人・中尾賢一・東明省三『日本の歴史的重要建造物における徳島県阿南市産大理石の使用とその意義』(徳島大学地域科学研究第4巻,2014,1頁~10頁)
・迎賓館赤坂離宮ホームページ(最終閲覧日:2023年2月26日 https://www.geihinkan.go.jp/akasaka/ )
・乾睦子『国内の花崗岩石材産業のあらましと現状―「稲田石」を例として―』(国士舘大学理工学部紀要第5号,2012,74頁~80頁)
・平塚市博物館『石材図鑑 平塚の街でみられる地球の歴史』(最終閲覧日:2023年2月26日 https://hirahaku.jp/web_yomimono/geomado/sekiz19.html )
・国土交通省東京国道事務所『日本橋百年の歴史を次の百年へ~補修工事の紹介~』(国土交通省関東地方整備局東京国道事務所,2011,31頁)
・三越本社「株式会社三越100年の記録」(三越,2005,417頁)
・乾睦子『歴史的建造物に見られる国産建築石材の調査―日本橋三越本店―』(国士舘大学理工学部紀要第12号,2019-b,275頁~280頁) 
・朝日新聞社 好書好日『都会の真ん中にアンモナイト! 石材研究の第一人者・西本昌司さんと東京・丸の内で「すごい石」を探した(前/後編)』(最終閲覧日:2023年2月26日 前編 https://book.asahi.com/article/13340019 後編 https://book.asahi.com/article/13340031 )
・URBAN LIFE METRO『建築鑑賞だけじゃもったいない 東京駅をさらに楽しむ鍵は「石」だった』(最終閲覧日:2023年2月26日 https://urbanlife.tokyo/post/33032/ )
※石材鑑定は基本的に文献によったが、一部は『西本昌司の石材資料室 http://nishimoto.rocks/ 』『関ケ原石材 STORN SEARCH SYSTEM https://www.sekistone-search.com/ 』を利用しつつ鑑定した。


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