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東京坂道巡検 実施報告

はじめまして、1期のオレオと申します。
アインズの地理部員で、乃木坂46さんが好きです。
福岡出身ですが、乃木坂46さんと同じ空気を吸いたくて東京に来てしまいました。
ちなみに今は賀喜遥香ちゃん推しです。最近写真集を発売しました。28枚目シングル『君に叱られた』ではセn……..よろしくお願いします。

以前から普通に巡検を企画したかったのですが、ちょうど乃木坂の齋藤飛鳥さんと星野みなみさんが13thシングルのヒット祈願で港区の13本の坂を上っていたことを思い出し、今回「東京坂道巡検」を企画させていただきました。
今回の巡検で歩いた坂はこのヒット祈願とは全く関係なく、私が面白いと思った坂を9本選んだものになります。
本記事はその実施報告です。
なお当巡検は、一橋大学の定める活動指針を遵守して実施しております。

企画概要

日程 07月に2日程に分けて開催
集合: 乃木坂駅2番出口 18:30
解散: 東京タワー 21:00
歩行距離 約6km

東京には名前のついた坂道が900本以上あると言われています。中でも港区は130本と東京23区で最も多いということで港区の坂道を巡りながら東京の歴史・地形を感じる巡検です。江戸時代の歴史に関係する坂や皆さんが一度は聞いたことがあるであろう坂、江戸時代の街並みや当時の人々の生活を伝える坂、東京の発展を感じる坂など様々な坂を紹介しました。

巡検ルート(地理院地図より作成)

乃木坂

18:30に乃木坂駅に集合しました。
東京メトロ千代田線の駅ということで、大学から直接集合した方には少々アクセスが悪かったと思います。すみません。でも乃木坂駅が好きなんです。
いくつか推しポイントを解説すると、乃木坂駅の発車メロディには乃木坂46の『君の名は希望』が採用されています。また、乃木坂46の1stアルバム『透明な色』のジャケット写真は乃木坂駅で撮影されました。

脱線してすみません。1本目の坂である「乃木坂」は、東京都港区の赤坂八丁目と九丁目の境、乃木神社前を西へ外苑東通りへと上る坂です。江戸時代は近辺に何もなく、寂しい場所であったことから「幽霊坂」という名前が付けられていました。明治時代になると、赤坂に軍関係の施設が点在していたことから軍人が移り住み、陸軍大将の乃木希典の邸宅もこの「幽霊坂」の近くにありました。1912年に乃木希典が殉死すると、赤坂区議会はその死を悼み「幽霊坂」から「乃木坂」への改名を議決しました。乃木坂に面している乃木神社には乃木希典とその妻・乃木静子が祀られています。その後その周辺の地域も「乃木坂」と呼ばれるようになりました。

乃木坂

ちなみに乃木坂46のグループ名は最終オーディション会場の「SME乃木坂ビル」に由来します。

本氷川坂

二本目の坂は「元氷川坂(もとひかわざか)」で、赤坂6丁目10番、6丁目19番の間にあります。勾配は急であり、赤坂氷川神社に沿って伸びています。江戸時代に坂の途中の東側に本氷川明神があったことが名前の由来です。この本氷川明神は明治16年(1883)4月、氷川神社に合祀されました。坂下には勝海舟の邸宅があり、現在住居跡の碑があります。

本氷川坂
勝海舟邸跡

赤坂氷川神社

本氷川坂を下った後、氷川坂を上り、赤坂氷川神社の周りを一周する形で戻ってきました。赤坂氷川神社は、縁結びのご利益があるとされるスサノオノミコト、クシイナダヒメノミコト、オオナムヂノミコトを祀る神社です。天歴5年(951年)、蓮林僧正が一ツ木村(現在の赤坂四丁目付近)に氷川明神の社殿を建てたと伝えられています。享保15年(1730年)4月、八代将軍徳川吉宗の命令で現在の地に遷されました。境内には樹齢450年の「大銀杏」の大木や、料理人の使い古した包丁を納め、その恩恵に感謝し、調理した動物や魚の霊を慰めるための「包丁塚」があります。

赤坂氷川神社

ブランコや滑り台などの遊具もあり、会員のテンションも高まりました。

本気でブランコを漕ぐ大学生

南部坂

3つ目の坂は「南部坂」で、赤坂2丁目22番、六本木2丁目1番の間にあります。江戸時代初期に南部家中屋敷が坂の途中にあったことが名前の由来です。「忠臣蔵」の名シーンといわれる「南部坂雪の別れ」の舞台としても知られています。「南部坂雪の別れ」とは、主君の仇討を決意した大石内蔵助が、雪の中を南部坂の坂上にある屋敷に身を寄せていた主君の妻である瑤泉院(ようぜいいん)を訪れて、最後の別れをつげるという話です。また、勾配がきつく、歩くのが難しいことから「難歩坂」という当て字も付けられました。

急勾配

芋洗坂

4つ目の坂は「芋洗坂」で、六本木5丁目、6丁目の間、六本木交差点付近にあります。某係長が頭をよぎりますが、江戸時代、坂の近くに芋問屋があり、芋を洗う姿がよく見られたことが名前の由来とされています。(諸説あり)『東都歳時記』には当時の様子が描かれており、絵の右側で「八里半」というキャッチコピーで芋を売っています。ちなみに「八里半」は栗(九里)には及ばないがそれに近い美味しさという意味だそうです。

「東都歳時記」より引用

鳥居坂

5つ目の坂は「鳥居坂」です。六本木5丁目11番、5丁目12番の間にあり、やや急勾配の坂です。名前の由来については二つ説があります。一つ目は、慶 長の初期に鳥居(鳥井)彦右衛門元忠の屋敷が坂の東側(写真では右側)にあったから。 二つ目は、麻布氷川神社の二の鳥居、あるいは三の鳥居があったからというものです。坂標には一つ目の説が書かれています。現在は坂を上るとシンガポール大使館がありますが、江戸時代半ばまでは鳥居家の屋敷によって道が塞がれていたそうです。

ちなみに現在の櫻坂46の前身である欅坂46は、1期生メンバーオーディション当初は「鳥居坂46」として募集されていましたが、合格メンバーのお披露目後、「欅坂46」に改名されました。

鳥居坂

暗闇坂

6つ目の坂は「暗闇坂」です。交差点を挟んで鳥居坂の反対側にあります。傾斜は緩く、短い坂です。かつて樹木が生い茂っていて、昼間でも暗かったことが名前の由来とされています。坂の途中には赤レンガ造りのオーストリア大使館が見えます。

一本松坂

7つ目の坂は「一本松坂」です。元麻布1丁目3番、2丁目11番の間にあります。古来より植え継がれている一本松が坂の南側にあることが名前の由来となっています。この一本松を中心に、一本松坂・狸坂・大黒坂・暗闇坂の四本の坂に分かれています。また、この一本松には「平将門を討伐にきた源経基が脱いだ衣服をかけた」、「関が原の合戦で送られてきた首級を家康が検分し、一本松の下に埋めた」など様々な伝説があるようです。

仙台坂

8つ目の坂は「仙台坂」で、元麻布1丁目、南麻布1丁目の間にあります。
坂の南部一帯が、仙台藩伊達家の下屋敷であったことが名前の由来とされています。また、坂下のほうはもと「仙台原」と呼ばれており、1899年に結成された日本最初のラグビーチームである慶応義塾のフットボールクラブは、この仙台原を練習場として使っていたそうです。坂の途中には大韓民国大使館があり、警官がたくさんいます。坂上からは東京タワーも見えます。

仙台坂

日向坂

いよいよ最後の坂となりました。9つ目は「日向坂」です。よく「ひなたざか」と読み間違えられますが、「ひゅうがざか」です。港区三田1丁目11番、2丁目1番の間にあります。江戸時代前期、坂の南側に徳山藩毛利日向守(ひゅうがのかみ)の屋敷があったことが名前の由来です。毛利日向守は毛利就隆のことで、毛利輝元の次男、毛利元就の孫にあたります。慶長16(1611)年から兄である本藩主毛利秀就の身代わりの証人(人質)として江戸に滞在していました。

読み方は「ひゅうがざか」ですが、日向坂46の命名の元になったのはこの坂のようです。「ひゅうがざか46」ではなく「ひなたざか46」にした理由はひらがなの字画が運勢的に良かったからだそうです。

日向坂

ゴール地点の東京タワーへ

ここまで4.4kmほど歩き、勾配のきつい坂もあったことから、徐々に疲れが出始めました。これは想定内ということで、ゴール地点である東京タワーまでのルートの途中にある「新広尾公園」で一休みしました。ってあれ?ブランコまた漕いでる…?

ブランコを本気で漕ぐ大学生2

ブランコを本気で漕いだ会員達はつかれたようですが、東京タワーに向かいました。

エネオス
東京タワー下から見るか

終わりに

ここまでお読みいただきありがとうございました。私のオタ活につきあってもらい申し訳なかったのですが、会員同士の仲も深まったようで良かったです。私自身初めての巡検企画ということで、進行であったり解説であったり至らない点が多かったと思いますが、また機会があれば企画したいです。今回巡った坂道は本当に氷山の一角で、東京にはまだまだ坂道があります。坂道巡検第二弾を企画したい気持ちもありますが、全然違うコンセプトでも楽しそうですね。

地歴同好会アインズでは月に1~2回ほど巡検が開催されています。面白そうと思ったそこのあなたも私たちと一緒に歩きませんか?

以上、「東京坂道巡検」実施報告でした!ありがとうございました。

集合写真(A日程)
集合写真(B日程)


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