見出し画像

50年前のITエンジニア ~2回目の海外長期滞在出張~


株式会社アイネの安永です。
前回の台湾電力発電所システムの開発が終了して約5年後に、同様のシステム開発を受注した。今回は電力会社のパワーディスパッチシステム(下記)の開発が主な仕事である。最終ユーザは前回と同じ台湾電力公司で、米国の開発会社も同じL&N(Leeds&Northrup)社である。今回はこのプロジェクトの完了まで約3年間のうち、米国内で過ごした 2 年間についてお話ししたい。(前回までの投稿については、この記事の末尾にご紹介する )


パワーディスパッチシステムとは

 パワーディスパッチシステム (Power Dispatch System 系統制御システム)とは電力ネットワークで電力の供給と需要及び送配電を管理するためのシステムである。
このシステムには、次のような機能が要求される。
1.電力供給の最適化
 需要と供給のバランスを取りながら、最適な発電所や送電経路を選択し、電力供給を最適化する。これにより、電力網の効率が向上し、コストが最小限に抑えられる。
2.障害管理
 電力ネットワーク内に障害や故障が発生した場合、システムは迅速に反応して影響を最小限に抑える。これには、突発的な災害や気候変動などに伴う障害などが含まれ、電力の供給ルートの変更や予備の発電所の起動などが含まれる。
3.予測とスケジューリング
 電力需要の予測や発電所のメンテナンススケジュールなどの情報を活用して、将来の電力需要に対応するための適切な対策を立てる。
4.エネルギーの効率化
 パワーディスパッチシステムは、電力網の安定性や効率性を高めるために欠かせない要素であり、現代の電力システムにおいて重要な役割を果たさなければならない。
 今回のシステムは台湾全土の火力、水力発電所を網羅したネットワークであり,急激な電力使用量の変化の際には水力発電所の発電量の調節まで直接行えるシステムとなっていた。

仕事の内容

 今回の仕事の内容についても 前回と同様に、全く知らされていなかった。ディスパッチシステムの開発だと聞いたのは前回と同じ Pennsylvania 州NorthWales のL&N社のテクニカルセンターに着いて、マネジャーと面談したときのことである。分厚い系統制御理論の本を渡されて、これを勉強しろ、ということであった。日常英会話とコンピュータに関する会話なら何とかなるとはいえ、英語の原書であるから、難しいこと甚だしい。2年間の滞在中、私の机の上にずっと載ってはいたが、やがて埃をかぶることになった。実際の仕事としてはシミュレータなどからのデータを元に論理的な解析をして、ネットワーク上での最適な発電量、配電量等の計算を行うことであった。このような系統制御のバックグラウンドが全くない私にとっては、1からの勉強となり、かなりの苦戦を強いられた。それ以外には、FORTRANを用いた実際のプログラムの修正、変更などを行った。基本的なシステムは標準化されていたので、台湾電力用にすべての送配電系統、発電所、変電所などの情報を入力し、シミュレーションを行い、最適な系統制御が出来るようテストを重ねていった。約 2 年間の工場内テストの後、今回は直ちに台湾に赴任して、現地でのテストに移行することになった。

日常生活
 

 最初の訪米の際には、海のものとも山のものともわからない日本人(私のこと)にそれほど注意を払われることもなかったが、今回は前回の実績もあったので、最初からL&N社の手厚い手配があり、滞在費や生活費も先方持ちでいろいろと便宜を図ってくれた。
最初から家族の帯同が許可されたので、当初は単身で、2ヶ月後には妻と4歳になった娘が加わって、会社近くに借りたアパートで生活することになった。2階建てのアパートの1階部分の2LDKであった。
2階の住居には外から入り口が付いているので、全く別の住まいとなっていた。2階の住人は愉快なイタリア系の夫婦で、滞在中は親しくお付き合いさせて頂いた。このアパートにはプールもついており、水が張られている夏場にはいつでも利用することが出来た。
(1)地方の町の移民対策
 時はベトナム戦争の末期。多くのベトナム難民が大挙して米国に押し寄せていた時期である。その人たちを受け入れ、米国に順化させるために、私がいた小さな町でもそれなりの対策が講じられていた。
その一つが地元の高校に設けられていた外国人対応の語学教室である。もちろん無料で、私たちを含めた世界中からの移民、一時訪問者などが、英語力の違いで数クラスに分かれて、昼、夜の授業を受けていた。妻と娘は英語のクラスに入っていたが私は併設されていた成人用の外国語講座でスペイン語を勉強することにした。でも、わずかな期間だったので、ものになるほどの実力はつかなかった。
(2)ナーサリースクール(保育園)
 向こうでは4,5歳児が行くナーサリースクールが近くにあり、英語が全く話せない4歳の娘も通うことになった。こちらは外国人対応ではないので普通の現地の子供たちと一緒ではあるが、遊んだり、勉強したり、最初から楽しく過ごしていたようである。2年目ぐらいには私の英語の発音を注意してくれたりしていたので、それなりに慣れて、英語頭を持つようになっていたようである。しかしながら、その後の6年間ほど、英語圏から離れていたので英会話はすっかり忘れてしまい、日本の中学1年で英語の授業が始まった頃には完全にゼロになってしまっていた。英語力をネイティーブにするには少なくとも小学6年ぐらいまではその国で過ごすことが必要かもしれない。

エピソード


(1)50年前の転職事情(リクルートエージェント)
 私は転職に関連した仕事をしたわけではないが、見聞きした転職のお話をしたい。
 前回滞在した時に同僚として一緒に仕事をしていたA氏が今度行ったときにも同じ職場で仕事をしていた。今度は4,5人のグループのマネジャーである。「昇進されたのですね」と挨拶すると、「出戻り」なんだと言う。どういうことかと聞くと、一度転職して他の会社に移り、3年ほどして再び今の会社に戻ってきたのだそうだ。転職の背景には個人的に契約しているリクルートエージェント会社の存在があり、自分の希望する職種、給与などを伝えておくと、条件に合う会社の求人があったときに、連絡してくれるのだそうだ。今回もそれに応募して転職、再就職を繰り返し、同様の仕事で、給与は約2倍になり、マネジャーになったとのこと。採用する側もされる側も、前職や退職理由などには拘らず、また年齢や個人的な背景、勤続年数なども関係なく、ニーズがあれば再雇用することが50年も前から行われていたのである。当時、日本では一度会社を辞めたら、再就職などは非常に難しい時代であった。21世紀の日本ではリクルートエージェントの営業が活発となり、出戻りなどを含めて中途就職斡旋の営業形態が活発なようであるが、米国では50年も前から一般的に行われていたと言うことである。
(2)   ニューヨークでばったり
 1976年は米国建国200年記念の年で、至る所で記念の行事が行われていた。秋頃だったと思うが、家族でニューヨークの建国200年祭記念パレードを見に行くことにした。我が家からニューヨークまでは、車で3時間ぐらいの距離であり、日帰りで出かけた。当日はニューヨーク港には日本の自衛隊の護衛艦隊が祝賀のために寄港しており、日の丸の国旗を久しぶりに眺めることが出来た。また、乗艦も許可されていたので、初めて1隻の護衛艦に乗ることが出来た。ニューヨークに来て日本の護衛艦に乗るとはと懐かしんで甲板を歩いていたところ、一人の自衛官がどこかで見たことがあるのに気がついた。なんと、高校の同級生である。彼が防衛大に行っていたのは知っていたが、まさかこんなところでばったり出会うとは思いもしなかった。「おい、山下ではないか?」と、声をかけたところ彼もびっくりしていて声も出ない様子であった。彼とは高校卒業後14年ぶりの再会でしばらくの間旧交を温めて、後日の再会を約して分かれたが、こんな異境の地で出会うとは、地球も狭いものである。

最後に
  約2年間の今回の滞在は家族同伴であり、2回目だったこともあって、楽しく過ごすことが出来た。
次回はこのシステムと共に台湾に赴任した話をしたい。

タイトル画面の写真は東京電力中央給電指令所のコントロールルームである。ディスパッチシステムのコントロールルームはどこの国でも最高機密なので公開されていない。これは、東京電力のホームページより公開可能となっている写真を借用した。

(*1)前回までの記事は次の通りである。

https://note.com/eine_note/n/ncad7fe04ebad

https://note.com/eine_note/n/n349a96676a47


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?