プロにならなければ意味は無いのか?

ちょっと前にnoteにこういった記事を書いたんですね。

私の過去話です。カンタンにまとめると

大学の数学科で勉強していて、そのまま数学者(プロ)になろうと思った
親切な教授から「数学者は物凄く厳しい世界だから止めておきなさい」と諭される
今までの自分の数学への取り組み方から、この世界は無理だと諦める

と言った話です。今回はそれに続く話となります。

プロになれなければ意味はなかった?

じゃあ、数学者になれなかったから、今まで学んできた事はまったくの無駄になってしまったのか?

いいえ、まったくそんな事はありません。

現に私の場合、学習塾で数学を教える立場になって、確実に「今まで勉強しておいてよかったな」と実感しております。

「それは学習塾というケースだからでしょ」

たしかに学習塾は今まで学んできた”教科”をダイレクトに活かす事が出来る稀有な職業です。

しかし、大学で習った知識なんてまったく使っていません。

知識を使わなくても、数学をやってきたことで得られた姿勢は確実に役に立っていると断言できます。

大雑把ではありますが

数学の「学び方」「考え方」「難問へのアプローチ」

など、そういったものです。

とくに「難問へのアプローチ」なんかは、様々な事象の問題解決プロセスと同じことだと思っています。

まぁ、とにかく自分は数学をやっていて良かったと確実に思っています。

あらゆる事に、学びとなるものがある

何でもそうだと思うんですよね。

サッカーの習い事や、クラブで一生懸命取り組んでいても、プロのサッカー選手になれる人はほんの一握りです。

しかし、チームですから

チームワークの作り方、指示の出し方、仲間のフォローの仕方、先輩後輩とのやり取り、勝利という目標に向かって一丸となる経験

そういったもの(経験)は確実に役に立つと思われます。

社会は人と人との集団で成り立っていますからね。

私自身は、そういうチームスポーツでの濃厚な経験はないので、やはり所々でチームスポーツをやってきた人たちに劣ると感じる事があります。

ただし役に立つものは、懸命に打ち込んだものだけ

結論:プロになれなければやる意味は無いのか、というのは断じて「違う」と言い切れます。

ただし、続きがあります。やってきたことに意味を見いだせるのは

「一生懸命に、主体的に、打ち込んだ」こと

一生懸命やるから工夫が生まれるし、主体的に取り組むから楽しくなる。応用も効く。そうやって取り組んだ経験が、その人の人物像を作っていきます。

「やらされて」「嫌々と」「チカラを抜いて」やってきたものでは得られる経験や、そのときの感情、身についた能力が後に活きるということは少ないのかと思います。
そんな状態で続けていると、もっと嫌いになるし、いたずらに時間を浪費するだけです。

しかし、嫌いだと決めつけないことも大事

一生懸命になれるものって、一般的に自分が好きなものとか、興味があるものだったりします。
でも逆もあり得るんですよね

一生懸命やるから、好きになる。興味が湧いてくる。

だからこそ、自分がいま興味を持って打ち込んでいるものは変わらず一生懸命にやるべきだし、

反対に好きではないことも、一生懸命やってみたら案外おもしろくてハマった、ということもありえます。

結局のところ、何が役に立つのか
もっと言うと「役に立てられるか」はその人にしか分からないんじゃないですかね。

そんなことを思いました。

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