見出し画像

天邪鬼VS言葉の力

言葉の力はすごいと思う。

気持ちを伝える方法として、世界中誰もが、年齢/性別/能力の有無に縛られず、平等に公平に使うことができる。(言語は違うけれど。”言葉”という存在においては、何語でも手話でも文字を介しての意思疎通であっても、という意味で)

「ありがとう」は人を嬉しくするし、「ごめんなさい」は人を強くさせるし、「さよなら」はまた人に会いたくなる。

言葉はストレートであればあるほど、伝えたい気持ちを伝えやすい。言われたほうも、その言葉に余計な詮索はせず、ストレートに意味をとる。たいていは。だけど、前回長々と書いた(言い訳をした)ように人の裏ばかり知る幼少期を過ごした結果、「人の言葉には必ず裏がある」と思い込むようになった。

最も、人との出会いの中で「人の言葉には必ず裏がある」というのは自分の思い込みだ、と客観的に見れるようにはなった。けれど、それを理解したからといって、すぐにそのフィルターが外れるわけではない。0.04mmだった網目が0.045mmに広がった、くらいなもの。だからこそ、疑心暗鬼になりやすく天邪鬼なのだ。

例えば、誰かに褒められたとする。

「すごい!天才じゃん!」「なんでもできるよね」「いてくれるだけで大助かりなんだから、あまり無理しないで」

これらの言葉を天邪鬼フィルターに通すとこうなる。

「たまたま自分ができなかっただけのことを意気揚々とやりやがった、こいつ」「専門分野は何もないよね」「ただいることしか能がないんだから、言われたことだけやってろよ」

もしかしたら、相手は本当にストレートに気持ちを言葉にして伝えただけかも知れない。そのままを受け取れば楽なんだろうけど、天邪鬼フィルターで歪んだ言葉の力はどす黒く渦巻いて、疑心暗鬼を連れて来る。

その疑心暗鬼はおどおどした顔で「この人信用ならないよ。耳に心地よい言葉に聞こえるけど、腹の中では何考えてるかわからない。ほら、言った後の笑顔、引きつってるでしょ?目笑ってないよ」と脅しかけて来る。

そんな考えをどう振り払っても、その後も相手と普通に会話をしていたとしても、心の片隅で「この人にはここまでしか素は出さないようにしよう」などと警戒線を引き始めてしまう。その根っこにはたぶん、「人を(大人を)信じると恐ろしい思いをする」という人生経験がある。だから、どんなに親しい友だちであっても、楽しく会話をした後に「あの言葉って裏が本当なのか」と勘繰る。

言葉を生業にしたいのは『言葉の良い力を信じたい。言葉を使う”人”を信じたい』と、心のどこかでは願っているからかも知れない。今年の節分は自分の中の天邪鬼と疑心暗鬼を追い払わなきゃ。

もしよければ、来週の節分で豆をまくとき、私にも投げつけてください(。。 ).。oO \(・・)


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?