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トゲった理由(長文です…)

「あんたの言葉にはトゲがある。喋るな。人を不快にさせるだけだから」と、母に言われたことがある。

おっしゃる通り、私の言葉の端々にはトゲがある。友だちと方言混じりにくだけて喋るときも、目上の人や一定距離のある人に向けて敬語で話すときも。こうして文章を書いていたり、歌詞や短編にもそのトゲは現れているかもしれない。その時にはまったく自覚していないが、後々「トゲってたかも…」と反省する。

別に誰かを傷つけようとしてトゲを装着しているわけではない。過去がそうさせるのだ、言い訳をすると。

母子家庭で育ったため、幼少期から「女親だけじゃ何も守れないでしょ」と周囲の人が母に言っているのを聞いていた。日本国内だが地域柄、「女は弱い。子どもに人権はない」という暗黙の何かがあった。子ども(私)がいることで離婚せざるを得なかった母。そのことで責められる母。病気がちな私を手放すように言われる母。幼心に私は「お母さんを助けるために自分が強くならなければ。”父親”に”男”にならなければ」と、男言葉や態度を身につけていった。残念ながら参考となる周りの大人の男性たちは比較的ヤ○ザタイプの人が多く、それを吸収してしまった。

幼稚園生で高校生に喧嘩を売れるくらい間違った方向に強くなったとしても、「女は弱い。子どもに人権はない」を刻み込まれることがあった。小学二年生のとき、大人の男(先生)からレイプされた。今でこそ児童への性犯罪はれっきとした犯罪であり罰せられるが、20年前は「ありえないこと。あったとしても(被害者側が)恥ずべきこと」だった。男に負けないためには男以上に”強く”ならなければならなかった。

口喧嘩で男子を泣かすようになっても、教師からの暴言に耐えられるほど強くはなかった。中学一年のとき、担任から「消えろ」などと怒鳴られ追いかけられ不登校になった。このとき潔く不良にでもなっていれば楽だった、とよく思う。悪い言葉遣いも、ドスの効いた声の出し方も、これまでの経験で十分身についているのだから。でもそうはなれなかった。不良になる勇気がなかっただけかもしれない。代わりに、誰も私と接することがないように、人に嫌われるように、ひどい物言いを学んでいった。

時を経て、世の中には私を傷つける人だけじゃないことを知った。優しい人。一緒にいて楽しい人。お互いに素の自分をぶつけられる人。知らない世界を見せてくれる人。「強さ」より大切な何かがあるのでは?と視野を変えてくれる人。その人たちと言葉を交わし、その人たちの言葉に揺さぶられ、言葉のトゲは前ほどギラついてはいない(はずだ)。少しずつ柔らかくなったとはいえ、消えないトゲは消えない傷をつけてしまう。

何度も言葉に殺されかけた分、自分は言葉で誰かを救いたい。そう思っているのに、自分の言葉にトゲがあっては元も子もない。「そのトゲが面白いときもあるんよねー」と友だちは言う。だけど、言葉にトゲのある人間が言葉を生業にしてはダメだろう。

スパイクタイヤのように使えば使うほどトゲはすり減って、やがて消えていくのだろうか。それとも剣のように使えば使うほど研ぎ澄まされて、より鋭利なトゲになるのだろうか。願わくば、下流の小石のように丸くなってほしい。そのためには言葉を晒さないと。留めていてもトゲは勝手には削れない。

noteを始めたのにはそんな裏理由もある。この長文(現時点1398文字)の中にあるトゲ、お気づきの方はぜひ教えてください "(。。 ) ペコッ



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