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台風の思い出話に始まる思考の旅~終着点不明~

この3連休、コロナ対策が緩和され旅行しやすくなったことを喜んだ台風が「ひゃっほーーーい!」と勢力を増し、日本縦断を敢行した。おかげで推しが我が地元にくるはずだったフェスは2年連続中止となり、私自身も雨風に荒れ狂う低気圧のせいで全く起き上がれない休日となった。

低気圧に脳みそが押されるまま布団に伏し「停電とかなるんかなぁー」と考えていた時、ふと思い出したことがある。

今回の台風は近年稀なほど非常に大型で強いもの、とされていた。でも、これよりもっとひどい台風に遭ったことがある。1999年の台風18号だ。

今回の台風ニュースでは全国的に取り上げられなかったが、山口県民、特に宇部市民にとっては記憶に深く残る大規模災害台風だった。真締川が氾濫し、山口宇部空港が浸水し、コンビニやスーパーからほぼ全商品がなくなった。真締川沿いに住んでいる友だちの家では、目の前の道路を鯉が泳いでいたそうだ。浸水被害がひどく、当時私は真締川近くにある大学病院に入院していたが、そこも浸水し、何台もの救急車が濁流に浮いているのを病室の窓から見た記憶がある。
小児科病棟でクローン病の治療を受けていた私。親や看護師さんたちが不安になっていることを察知して怖がる子どもたちもいたそうだが、私は呑気に「うわぁー車がぷかぷか浮いてるー」と喜んで(?)いたそうだ。病院も停電になり、非常電源はついていてもその電力はモニターなど必要な人たちのためのもので、病室自体は薄暗く陰気な灰色をしていた。恐らく、私はその雰囲気に飽きたか、普段できない遊びのチャンスやん!と思ったのか。何も映らないブラウン管のテレビにぼやりと反射した私はテレビのレポーターになりきり、台風の様子と病院内の様子を実況し始めた。同室だったのか、遊びに来たのか、入院仲間も集まりインタビューごっこをして遊んだ。「また何かしよる、この子…」な看護師さんもいたと思うが、何より、不安そうなみんなの顔が一瞬だけでも楽しそうな笑顔に変わったことが嬉しかった。

小児科入院中の思い出といえば、消灯の挨拶がある。ベッドから動ける子どもたちは当番制でナースセンターへ行き消灯の挨拶を読み上げた。
「消灯の時間となりました。電気を消して静かにお休みください。テレビを消して静かにお休みください。点滴のある方はカーテンを開けてお休みください。」
が、正式な文章だったと思う。だけど、それをそのまま読むのは面白くないと思ったらしい。一応はちゃんと文章を読んだ後、
「それではおやすみなさい。ばいばぁ~~~~いっ!」
と大声で言っていたそうな…(^^;)
もちろん、大人たちから大顰蹙をかっていた(母が)そうだが、病床の友だちはナースコールに向かって「ばいばぁ~~~いっ!」と返してくれていて、「今日はあやのちゃんの当番なん!楽しみにしちょるよー」とチューブに繋がれた友だちの笑顔を今でも思い出す。

笑顔。友だちの笑顔。誰かの笑顔。
そんなことを意識し始めたのはこの頃だったのかも知れない。
ただ自分が楽しいと思うことをやって(大人の迷惑を全く考えていなかったのは本当に申し訳ないと今では思う…スミマセンデシタッ)、それが誰かを笑顔にした。いつも痛みと検査の恐怖と親と離れている不安とで陰鬱な顔になりがちの仲間が、ふとしたことで笑って、その一瞬だけでも痛みや不安から解放されていたのなら。
脳性まひだったか、途中から話せず動けなくもなった仲間がいた。私も病室から出られないことが多かったが、動けるときはその子の部屋に行っていろいろ話をしたり遊んだりした。その子からは言葉は返ってこないけど”楽しい時間”であることは感じていた。十年以上経って、その子が亡くなったと知った時、その子のお母さんから「あやのちゃんが遊びに来てくれた日は、その後も機嫌が良くて体調も良くなっていた」と聞いた。一緒にいて楽しい、と思う時間を共有できていた。それが一瞬だけでもその子の苦しみを忘れさせていたのなら。

「あなたは人を笑顔にさせる力がある。人の心を開いて明るい世界に広げる力があるのね」
と、言われたことがある。中学時代、つまり不登校時代に通っていた市教育委員会主催のフリースクールの先生に。

そこには市内の小中学校から不登校の子が集まる。似たような苦しみと葛藤抱えている仲間に出会うことで笑顔を取り戻せる子が多い。だけど中には、心の傷が大きくて信頼できる人としか話せない子もいる。話をしようにも、その信頼者を介してようやく話せる。百戦錬磨の先生たちもどう接していいのかと悩んでいたそうだ。だけど、私にはそんな深い事情はわからない。ただ、「この子、笑ったらめっちゃかわいい笑顔だろうなー。どうやったら笑ってくれるんかな?」と単細胞に考えていただけだった。話はできない、とはわかっていたので、挨拶だったり変顔だったりゲームに誘ったりと普通のことだけしていた。すると、いつの間にか、その子は信頼者を介さなくても自分で自分の意思を伝えられるようになり、クラスで一、二を争う大笑いをするようになった。そのフリースクールの空間に慣れたんだろうと思っていたが、先生たちの意見は違うようだった。私が積極的に笑わせていたり話かけていたことで心を開いてくれたらしい。私には全く自覚はないのだけれど。

中学の時では茶道部の思い出もある。同級生で後に茶道部部長になった子は、不登校の私でも知っているくらいいじめの標的になっている子だった。
容姿や雰囲気、言動、全てが標的になっていたらしく、たまに登校したときに廊下で見る彼女は暗く人目を避けるように歩いていた。それもそれでいじめの対象になっていたが。すれ違いざまに「おはよう」と言って小声で「おはよ」と返って来た。するとすかさず「うわ、キモいのと不登校が喋ってる。マジキモ」「キモイ同士いいんじゃない?」などとヤジが飛んで来た。それ以来、気まずくなって部室でしか話をしなくなった。…だがしかし!その子はよく笑いよく話す、普通の中学生なのだ!当たり前だけど。1年の時は「学校にいる」ということだけで私も精一杯だったのであまり話はできていなかったけど、それでも私が何か言うと笑って答えてくれた。その笑顔を他の生徒は知らないだろう。綾瀬はるか似の無邪気で明るい笑顔なのだ!「暗い」「キモイ」「臭い」なんかじゃない。天真爛漫、が似合いそうな笑顔とちょっとおっちょこちょいな所。2,3年の時には「うるさいっ」と先生から叱られるほど、よく話しよく大笑いした。この時も先生から「あなたといると部長さんはいつも笑顔ね」と言われた。

本当はそうじゃない、きっと。
フリースクールの子にしても、部長にしても、素は笑顔のすてきな明るい子で、他の誰にも引けを取らないおもしろい子なのだ。それを誰も引き出していなかっただけで、誰もその笑顔に気付いていなかっただけで。
フリースクールの子も、笑顔を取り戻し、少しづつ学校に戻って行った。
部長のあの笑顔なんか、男子が知ったら舞い狂うほどだっただろう。化粧、香水、短いスカート。そんな小細工をしなくても、学校一のマドンナに名乗り出られるくらい可愛かったんだから。それを知らずにブスだのなんだの言っていた奴ら、ご愁傷さま。

それ以来、私は「大の人間嫌いだけど、人の笑顔を見たい」という矛盾した生き物になった。
初対面の人と1対1になったり、電車の中とかでむすっとした顔の人を見たりしたら、「この人、笑ったらどんな顔するんだろう」と想像してしまう。そして、笑わせてみたくなる。この人の笑いのツボはどこだ?と探して見事ヒットした時の「よっしゃ!」感も楽しいけど、何よりその人が笑顔になってくれるのが嬉しい。
だから、歌詞や何かを書くにしても”笑顔”というのが幹になっている。あんまり笑顔笑顔書いたら宗教っぽくて抵抗感あるけど。

笑顔。誰かの笑顔は、また別の誰かの笑顔に繋がると思う。
歌詞で、短編で、私の作る何かで、誰かを笑顔にしたい。
友だちとやっているYoutubeチャンネルあやくるNightだってそうだ。
コロナ禍の大学4年。コロナで何人亡くなった、芸能人の相次ぐ訃報、混乱する世界。暗いニュースばかりに嫌気が差して「ふっと笑う時間を作りたい。その一瞬だけでも暗い世界から視線を変えてほしい。笑いを周りに広めてもらいたい」と始めたのだ。コンセプトは一応きちんとあるけど何せまとまりがないもので、結局誰得なん?なことしか配信していないけど。

笑顔。誰かを笑わせたい。笑いが誰かを救えれば。
誰かを笑顔にできて、それが仕事になれば最高だろうとは思う。
小学生時代、「将来、お笑い芸人やろ?」と言われたことがある。が、お笑いの才能があるわけではない。私の何気ない一言に誰かが笑う、というだけだ。紆余曲折だらけの人生で、トゲった言葉ばかり身に付けてしまったし、今さらお笑い芸人なんて無理だ。今の仕事は”笑い”なんて1mmも生み出す必要はないし、誰かを笑わす機会すらない。上司に怒られないように、先輩に睨まれないように、取引先に舐められないように、常に気を張って引きつった社交辞令スマイルを続け、本当の笑顔すら忘れる。
誰かを笑顔にできる仕事、そんなものは一握りの選ばれた才能ある人だけが就ける夢のような仕事なのだと、すっかり大人になってしまった子ども心がため息を吐く。

台風で悶々と寝過ごして思考の旅をしていたら、こんなにも長文になってしまった。しかも笑いどころのない内容(^^;)長々とお付き合いありがとうございました!

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