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そして後遺症

 命を取り留めた息子だがその直後から様々な後遺症が出始めた。脳障害とは本当に恐ろしいことだ。

嚥下機能障害、嚥下機能が無くなりむせることがなくなると肺に誤嚥してしまう。
なので鼻から管を入れ胃に直接、栄養を流し込む。
病棟に移ると親が我が子の鼻から胃に管を入れなければいけない。最初は上手く入ってるのか毎回不安で苦痛だったが慣れたらこんなもんだな、とだんだんわかってくる。嚥下機能検査は喉にカメラを差し込む。この時、苦しむ事なくスルスルと入っていく場合は嚥下機能が回復していない。普通は喉にカメラを差し込まれたらオエー!となるはずだ。
息子が、オエー!となったのは入院3ヶ月目くらいの時でカメラを差し込んだ時、オエオエ苦しむ息子を見て私が泣いて喜ぶというカオスな瞬間だった。
その後、息子はミルクを飲み始め急速に嚥下が回復。離乳食を通り越して幼児食を食べるようになり医師が仰天するくらい入院中からモリモリ食べた。
しかし、他にも左顔面に麻痺、右半身に麻痺があり楽しみの食事も上手く舌を使って食べられないこともあり癇癪が始まる。食事は毎回泣き叫び仰け反り地獄絵図だった。

それに加えて睡眠障害も出てくる。毎夜、泣き叫び暴れる。主治医が見兼ねて個室に移動させてくれたが親の私も限界で泣いてしまうことがあると看護師や担当医が別室で夜中まで診てくれることもあった。なんて良い病院だったのだろうと今でも感謝しかない。
現在は睡眠障害は多少残っており、夜中に叫んだり暴れたりはあるが一時的なものであるし家族も慣れていて私以外は起きることもない。
ただ、腹の底から物凄い雄叫びを上げる時があってこの時は未だにゾワゾワした寒気と恐怖が私を襲ってきて慣れることはない。

まだまだ後遺症は出てくる。
耳の聴こえの異常が判明する。右耳は正常だが左耳は全ての音が雑音にしか聴こえない、という私たちには理解し難いものもやってきた。
こうなると自分の声も聴き取れないので言葉の取得も難しくなる。
治療としては左耳に耳栓をし聞こえなくして右耳のみで聴き取るという方法で右耳を鍛えて言葉を取得していくことになった。
この耳栓が厄介で耳の型を取り耳にスッポリ合うように特注を作るのだがお値段は安くはない。
気づかないで外れてしまうことも多く耳栓探しに時間を割かれ、こうしている間にも息子の発育が遅れてしまうのではないか、もう見つからないのでは、と絶望的な気持ちにさせてくれる代物だった。
実際にはそんな些細な時間で発育がどうのだとかほぼ関係ないのだがこの頃は毎日、息子の子育てや介護に死に物狂いだったのでどうしたってマイナスな感情ばかりが頭を駆け巡る。
そんな耳栓だが2年後に突然のお別れが来た。
聴こえの検査で左耳が何の前触れも無く完治していたのだ。これには主治医始め、みんな驚き、奇跡としか言いようがない神秘だと大騒ぎしたものだ。
完治は踊り出したくなるほど嬉しかったのにいざ、耳栓とお別れが来たらなんだか寂しくなるという面倒くさい心理が働き耳栓は今でも感謝の気持ちと共に保管してある。

目にも障害がある。眼底麻痺だ。
病後、息子は目の玉の筋肉が麻痺してしまい酷い内斜視になった。もう内側に入りすぎて黒目が見えない程でこれが見た目の問題で非常に悩ましかったし外に連れ出したくない要因の第一位と言っても過言ではなかった。自分の子供が恥ずかしいだとか人に会わせたくないだとかそんなのおかしい、気にし過ぎだと思うだろうがこれは経験しないとわからないことで健常なお子様を持つ人には到底分かり合えない事柄なのだ。子供の世界は残酷なもので自分たちと違うと思えばあからさまに態度や言葉に表す生き物だし、そんな子供たちの親御さんたちも息子の顔を見るなり避けて行く人もたくさんいた。
娘の時なら公園で遊ばせていたら親子連れが何かと話しかけてきたりその場だけでも談笑したりしたものだが、息子といるとそれは無い。
逆の立場になれば、私もきっと見た目で障害がある子供の親御さんに話しかける勇気が出ないだろうしまず、何を話せば良いかと考えるだろうからわざわざ話しかけないだろうなと頭では理解しているがやっぱりその当時は感情が理解に追いつかず公園なんていくものか!と捻くれた考え方しか出来なかった。
そういう愚痴をInstagramなんかで吐き出すと反論されたり、自分を守りたいだけだとかコメントが来てどうにもやり場の無い怒りみたいなものが込み上げてきたものだ。
そんなこともあり、目に関しては眼科医のスペシャリストに委ねることにした。
広島から実に車で3時間かけて兵庫医科大学病院まで何回も通い、早々に手術を決行した。
術前は「先ずは目の機能を回復するために黒目を正常な位置に戻すという簡単な手術で見た目云々では無いのでご理解ください」
と主治医から説明を受けた。
手術が終わるとなんとまあ、正常な位置に黒目がある病前の息子に戻っていた!
長らく寄り目の息子ばかり見ていたからこの時は感動して涙が出た。
見た目は期待しないで、と言われていたけれど十分だった。
但し、眼球は動かないので首を動かして左右を見なければならない、これは術前から変わらない現実だ。息子の眼球は生涯動くことは無いだろうと宣告される。現に今も眼球は動かない。
手術は2年後に再度、今度は高性能な術式で行われ、現在に至る。現在は眼鏡使用だが見た目には所謂、普通の子だ。

肢体不自由についても手先の震えと体幹機能障害があり、歩き方はフラフラするしすぐに転ぶ。
これに関しては障害者手帳を取得している、
故に、学校は今も朝は私が登校班と一緒に行き、帰りは「はじめてのおつかい」方式で見守りながら迎えに行く手段をとっている。
手先の震えも厄介でボタンやファスナーが難しく未だにリハビリ中である。
しかし、お箸や鉛筆は頑張って使っており、文字もなんとか読める文字を書いている。

また、言語についても発音が悪く未だに赤ちゃんみたいな話し方だ。速度もゆっくりで声も大きいので静かな場所ではヒソヒソ話ができなくて困る。

こうやって改めて文字にしてみるとなかなか後遺症があるが、これでも息子は予後が良い方なのだ。
それほどに脳障害というものは厄介で不治の病と言っても良い。

息子は現在もリハビリや定期受診に行っている。
でも文句も言わず頑張ってくれている。
それに加えて、公文、スイミング、ドラム教室も楽しんで通っている。
どれも体幹や脳に良いとされている習い事でゆっくりではあるがこなしている。

知的に関しては1年から1年半の遅れがある。しかし事柄によっては年齢同等だったり上だったりもするのでこちらはまだまだどう転ぶから未知である。

前回からずらずらっと書いてきたがこれが私の息子だ。まさか自分が障害児を育てるなんて思いもしなかったけど7年経ちようやく、受け入れている自分がいるような気がする。


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