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#28 富士信仰の変遷 ふじさんミュージアム(山梨県富士吉田市)

ふじさんミュージアム(富士吉田市歴史民俗博物館)は富士山と共に歩んできた地域の歴史文化、民俗を紹介する場所で1979年に富士吉田市郷土館として開館した。2013年6月に富士山が「信仰の対象と芸術の源泉」として世界文化遺産に登録され、2015年4月にリニューアルオープンした。

遥拝としての富士山

富士山を信仰する原初的なものは、遥拝信仰であったとされる。日本武尊が東征の折に富士山を遥拝したとされる大塚丘、富士山の方向に向けた祭壇、遥拝所がある山宮浅間神社などが有名。

平安時代初期には、富士山の噴火に関する記録が多く残された。853年には富士山の神を浅間大神として祭祀した。864年の貞観の大噴火を経て、現在の山梨・静岡で浅間大神を祀る神社が建築されていく。

修験としての富士山

平安時代末期からは神仏習合として浅間神の本地物とされる大日如来などの仏像が山内に奉納されるようになった。1149年に末代が富士山の山頂に大日寺を建てたことを機に遥拝から修験へ信仰の形態が変わっていく。ちなみに現在まで伝わっている富士山内の仏像・神像は80体以上もあるよう。

大衆信仰としての富士山

「勝山記」(1500年)の記述を踏まえると室町時代には修行者以外に信仰のために登山する道者が多数いたようだ。富士山は「死後の世界(浄土)」と捉えられ、富士山に登り下山することは新しく生まれ変わることを意味した。ゆえに富士山には死装束とされる白い行衣をまとい登る習慣となった。

のちの富士講の元になる富士山信仰の教義をまとめあげたのが長谷川角行(1541-1646?)。長崎の生まれ、18歳の時に浅間大菩薩からのお告げがあり富士山で修行を重ね、人穴での修行で得た教えを教義としてまとめたと言う。江戸で「つきたおし」という奇病が流行した際に「御冨世貴(おふせぎ)」という札を用いて多くの人々を救ったことが角行の富士山信仰が広がるきっかけになったとされている。長谷川角行の教えは、富士山を人の命の源(父であり母)とするものだったらしい。

六代目の光清(1682-1759)の時代になると大勢の信者を集め、一つの講にまとめるなど組織化が進んだ。光清の時代には、傷んでいた北口本宮富士浅間神社の大規模修理が行われた。

また食行身禄は角行以来の教えを一段踏み込み、神仏だけに頼らない倫理の重要性を説いた。

富士講の広がり

富士山に登るには多額の費用と多くの日数がかかることから、有志がお金を出し、代表者が富士山を目指す「富士講」という仕組みが江戸時代に広がった。江戸末期には富士講で全国9,000カ所以上があったようだ。

1868年の神仏分離令で仏教色が一掃され、仏堂は神社へ変わっていった。イギリス第二公使として来日したパークが1867年、富士登山をした際に婦人同席であったことが一石を投じた結果となり、明治以降は禁制であった女性の登山が解禁となり、今にいたるとのこと。



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