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#21 生涯描いた作品は3万点 すみだ北斎美術館(東京都墨田区)

すみだ北斎美術館では、葛飾北斎(1760?-1849)をテーマにした美術館で、2016年に開館した。

開館に至るまで

葛飾北斎はその生涯の殆どを墨田区で過ごしたとされ、地域振興の一環として美術館の建設が平成初期に計画された。ただ2000年に財政難で一度凍結、2006年にスカイツリー建設が決定したのちに、計画が復活したという。

勝川派として浮世絵デビュー

葛飾北斎は6歳から絵を描き始め、12歳には貸本屋で、14歳ごろには版木掘りで仕事をしていた。1778年に役者絵で人気を博していた勝川春章に入門し、翌年には勝川春朗の名前で浮世絵デビューを果たす。

当時、役者絵は主に鳥居派が手掛けていたが、勝川春章は、役者を似顔で書き、一人一人の表情を細かく書いたスタイルで人気を博していた。勝川は役者絵で有名だが、美人画、相撲絵、名所絵など様々なモチーフの作品を残しており、勝川のもとで北斎も様々な絵を描いていたのだろう。

ただ北斎は密かに狩野派やその他の流派の画法も学んでいたようで、勝川派のなかで確執があったらしい。

琳派を経て、独自路線へ

1792年に勝川春章がなくなると、1794年(35歳)に江戸琳派の俵屋宗理を襲名し、違う画風で作品を出すようになる。琳派は京都で17-18世紀に活躍した俵屋宗達、尾形光琳を祖とする一派で装飾的な絵画のスタイルが特徴だ。

江戸琳派を襲名したが、この時期の作風には先代宗理の影響は少ないとの見方もあり、襲名に関する背景は謎らしい。ちなみにこの時期、北斎は「七味唐辛子」販売などの副業?を始めるなど、お金に困っていたらしい。1798年には「宗理」の画号を門人の宗二に売った。そして「北斎辰政」と名乗り、琳派から独立した。

文化年間(1804-1815)では、北斎は読本挿絵の製作を精力的に行った。墨の濃淡を利用した奥行のある空間表現、奇抜な構図が人気を博したようだ。

この時期、北斎は11代将軍の徳川家斉の御前で作画の披露をしたという。絵師の谷文晁が絵を描き、北斎が花鳥山水の絵を書いた。北斎は、長く継いだ紙に藍色の線を引くと、持ってきた鶏の足に朱肉をつけてその紙の上を歩かせ、「これが龍田川の風景です」といい退出したという言い伝えがある。

絵手本「北斎漫画」、錦絵「富嶽三十六景」へ

文政年間(1818-1830)では門人が増えたこともあり、絵手本の製作に注力をしていく。絵の百科事典とも言われ、世界的に人気となった「北斎漫画」(全15冊、総図数3,900)は文化11年に出版され、北斎没後の明治11年まで刊行され続けた。

天保年間(1830-1844)では「富嶽三十六景」をはじめとする錦絵(多色木版画)が多く生み出された時期になる。

浮世絵は役者絵や美人画が中心であったことから、北斎の「富嶽三十六景」等のヒットにより風景画が浮世絵の中でも定着していくこととなる。その後、晩年にかけては錦絵から肉筆画へ、作品内容では今までの風俗画から和漢の故事や宗教に因む絵へと変化が確認できる。北斎は1849年に90歳で亡くなる。

己六才より物の形状を写の癖ありて半百の此より数々画図を顕すといへども七十年前画くところは実に取に足ものなし。…九十歳にして猶其奥意を極め一百にして正に神妙ならんか。
「富嶽百景」(1834)

北斎美術館を支えるコレクター

すみだ北斎美術館では、墨田区が独自に収集した作品に加え、ピーター・モース氏、楢崎宗重氏のコレクションを収蔵している。

ピーター・モース(1935-1993)は大森貝塚を発見したエドワード・モースの血縁で、北斎の研究家として有名。欧米における北斎の個人収集としては最高・最大と言われており、亡くなられた後、墨田区が総数600点に近い作品や研究資料を取得した。

楢崎宗重(1904-2001)は戦前より浮世絵雑誌の発行に携わり、趣味的な分野とされた浮世絵を美術史の中に学問的に位置付けることに尽力した。戦後間も無く「北斎論」を刊行した。1995年に総数480点に近い作品、研究資料を墨田区に寄贈された。

尚、すみだ北斎美術館は約1,900点(21.4時点)の作品を所蔵している。

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