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書評 『体温と雨』木下こう(私家版)

本書を買うために、前から行きたいと思っていた小さな本屋を訪れて、どきどきしながらインターホンを押した記憶がある。
とは言いながら、本書を買うまでこの作者のことを僕は知らなかった。
今まで何度か行こうと思ったけどなんとなく行けなくて機会を逸していた冷たい場としての本屋、そのtwitterでおすすめされていた本書の紹介文と青や紫が目立つ表紙、それらが重なることで不思議な引力が生まれて、小さな僕を引き付けたのだなと思う。
そしてこの本を開けば、いつでもあの扉の前での心許なさを思い出すことができる。


本書を本当に一言で表すならば、「さみしさの本」になる。
まず、装丁からそれを感じさせる要素は強い。
先に述べたように表紙がそうである。
また、始めは気が付かなかったのだが、一般的な歌集に比べて一首の字が小さいのだ。
歌に使われているフォントに関しても、一般的な明朝体などではないように思われる。
僕はフォントに関しては全く詳しくないので間違っている可能性はあるが、よく使うフォントに比べると感情をイメージさせるように思えた。

さらに言えば、そもそも本書には何度も「さみしい」「さみしさ」という語が詠み込まれている。

草木を食むいきものの歯のやうなさみしさ 足に爪がならぶよ
首飾りはづしてのちのくびすぢは昼の硝子のやうにさみしい
尾のやうにさみしき言葉を告げられて春となりゆくこころぼそいよ
眠剤におもさはなくててのひらでただ白すぎるさみしさになる

これは僕の好きな歌を挙げただけで、さみしさを詠み込んだ歌は他にもある。

そうではあるのだが、心が沈むような本かと言われればそれは大きな誤解である。
読み手はむしろそのさみしさに温かさを感じ取ってしまう。
それは、文語表記と作者の言葉選びの繊細さによるところが大きいだろう。

先に挙げた歌について触れてゆく。
一首目と二首目は、さみしさの比喩が目を惹く歌だ。
草食動物の歯といえば、草をすりつぶすための臼歯を思い浮かべる。
平たくて少し大きい、そしてそれが隙間なく列になって並んでいる様子は、「草木を食むいきもの」とゆったりとした調べも手伝って「さみしさ」と呼応する。
硝子はきらきらしたり透明で透き通ったというステレオタイプの印象があるが、「昼の硝子」という風に「昼」と明示されれば、硝子に光が自然と差し込んできらきらする印象をいやが応にも思い起こさせる。
そのあまりにも自然すぎる自然さが、首飾りを外して何もなくなった首筋のさみしさに丁度よく結びつく。
どちらも共感とまではいかないが非常に納得感のある喩えであるし、それはさみしさという誰もが持ち合わせるものを言い表しているので、読み手にすっと入り込む。
三首目、一首目もそうであったが、結句が「よ」と呼びかけるように結ばれる。
この表記は文語なのだが語り掛けるような文体があたたかみを感じさせる点であり、本書の良い点のひとつである。
上句の「尾のやうに」という比喩と「さみしき言葉を告げられて」という光景は、いろいろな特徴がある春の中でも「こころぼそ」さだけを取り出すことを成功させている。
四首目、睡眠剤という印象がやや重たいモチーフを用いているが、詩としての納得感が一首をきれいにまとめ上げている。
「おもさはなくて」と言い切る描写も写実的ではないが薬の小ささを思えば現実と乖離していることもないし、錠剤の白さをイメージすれば「ただ白すぎるさみしさとなる」は心に響いてくるようだ。

あたたかみを感じさせる要因として、本書には草木をモチーフとした歌が多くあることも挙げられる。

離れると風になる葉をいつぱいにたたへる樹木 その朝のこゑ
肉体の温度せつなし夜の樹をぬけくる雨のとうめいな黒
目眩には前兆ありてわたくしは鬱蒼とした森かもしれぬ

三首挙げたが、やはり他にも草木モチーフの歌は多くあることを付け加えておく。
一首目、「離れると風になる葉」という表現、「いつぱいに」の写実や初句二句を強める効果、「たたへる」の動詞選び、いずれも優れている。
「樹木」のスケッチとしての、そして詩としての描写が巧みな一首として推したい。
結句には「朝のこゑ」とあり、木の声を聞くという普通であればおかしい行為であるが、上句の描写によって詩としての現実味を持たせているし、「樹木」に主体の意識が強く向いていることを想像させるので景の魅力を納得感を伴って十二分に感じることができる。
二首目、「とうめいな黒」が何ともすごい。
写実ではあるし詩でもある、それは「とうめい」と「黒」が意味上は対立していないがイメージとして正反対のところにあることに起因するが、作者の真骨頂といった結句と感じた。
肉体感覚がダイレクトに表れた上句に全く見劣りすることなく、ここまで上手くやられると参ってしまうなと思うばかりである。
三首目、「目眩」と「森」は比較的近い単語のようにも思える。
しかしこの歌で主体は「わたくし」自身を「森かもしれぬ」と考える。
この一歩先に進んで再定義をするような感覚、しかもそれは自己を下に沈めていくような類の認識であり、それを引き起こした(と考えられる)「前兆」がひどくおそろしいもののように映る。

この「目眩~」の歌は、今述べたように自分を森と同一視しようとするような歌である。
「肉体~」の歌についても、「夜の樹」は主体自身の隠喩と読むことも可能であろう。
本書を読んでいると、主体の自意識を感じさせられることが多々あった。
主体=作者と仮定しての話だが、草木のモチーフが多いのは、作者自身に自分を草や木に一種の共感を覚えているからではないだろうかと思う。

本書に収録されている歌の中に、共感できるような歌は少ないだろう。
それは何度か述べたように、本書の歌は読者に圧倒的な説得力を持って伝わってしまうような系統の歌が多いからだ。

自意識を感じさせる歌を他に挙げるなら、

たて笛に遠すぎる穴があつたでせう さういふ感じに何かがとほい
宇宙船しろく塗られてしづかなる文明圏の足のだるさは
熟睡(うまい)する午後の椅子にはわたくしの胴体だけがのこさずあるらむ

一首目、比喩が巧みな一首。
「何かがとほい」という自分と他者の距離を測っている所がまず一つ、そして突き詰めると「たて笛」の「遠すぎる穴」を引き合いに出しているがこれはいくつかの穴を自己の中に確立しているとも思えるところがもう一つ、自意識を感じさせる点であるといったところか。
二首目、この歌の語順、景の立ち上げ方が好きな一首だが、「宇宙船」「文明圏」と壮大な名詞を出しながら結句が「足のだるさは」と自分のことで結んだことに、一瞬戸惑ってしまった。
三首目、単純に「わたくし」の歌を持ってきてしまったが、それだけで選んだのではない。
寝ているときに魂が人魂とか幽体離脱とかのようなイメージで体の外に飛び出してしまうみたいなことを想像できる人は多いと思うが、この歌では「胴体」に注目して残さずあるであろうという肉体に主体の意識が向いている所が唯一無二で、良い点だと思う。

そしてやはり、これらの歌からもさみしさを幾許か感じる。
そもそも、さみしさという感情は、自意識から生まれる感情ではないか。
自分と他者とを隔てる殻を作りながら、他者との関係を持つことで生まれてしまうような。
作者は様々な表現方法を用いてさみしさを鮮明に伝えることだってできるのに、始めに挙げたような形で「さみしさ」を意識的に詠み込んでいる。
その様子は、読者に共感してもらうことをはなから求めていないかのようである。
さらに言うと僕は、この作者が表現した自然や外の社会がありありと伝わってくるけれど、それは本当に作者の中にも息づいている感覚なのか、という不安を覚えさえもしてしまった。

作者が詠む歌は写実的ながら詩的である。
そのような言葉を見れば、美しくも理解しがたい作者の自意識を、鮮明に浮かべることができるし、ありありと見せつけられる。
そのことにとてつもなく惹きつけられている。

そして本書では、時折はっとする歌が表れる。

くろ色のクレヨンのふちどりの絵はだめです。とけてなくならないから……

例えばこの歌はそうで、「だめ」「……」が特に目立つ一首である。
この歌にも主張に詩としての説得力があるが、さらに主体の本音が垣間見えたような気がしてその主張は複雑にも強固になっている感覚がある。
読者としての僕だけでなく、人間としての僕までもがドキッとしてしまう。


この歌集は、この歌集に載っている歌たちは、非常に引力が強い。

僕が持っている本書は私家版として再び世に出た本である。
つまり、この『体温と雨」という歌集は一度出版社によって売り出され、絶版になっているということだ。
そんな本が再び日の目を浴びることができたのは、発行者であり発起人でもある牛隆祐さんをはじめとして多くの方々が、作者と作者の詠む歌に引き寄せられたからだろう。
そして彼らの力も与って、この歌集が持つ引力はさらに強力なものになっているのだ。
僕が本書の引力に引きつけられたことは必然だったのだ、と信じてやまない。

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