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泣くではなく鳴くために。

この心が、まるで深い森の中の誰も知らない湖のように、とても静まりかえっている。なんて穏やかなんだろう。

でも、見上げれば、空にはまだ厚く覆われた雨雲が、今にも泣きそうになっている。まるで眠れない夜と見えない不安にただ、怯えている私のことを、同情でもするかのようだ。

こんな時、とても美しい声で歌を唄えたらどんなに素敵だろうかと思う。誰もいない森の中で、生き物たちも眠りについた静けさの中で。

人にとって、歌はきっと野生の「鳴き声」と同じことなのだろう。「泣き声」じゃなく、あの鳥が鳴く「鳴き声」。人が歌を唄うのは、動物のそれと同じことで、元をたどればきっと、何かを求める大切な求愛の音、もしくは声なのかもしれない。

だから人は歌を唄う。好きな人や故郷を思いながら、時には涙を流しながら。歌は人の心をどこまでもやさしく癒してくれる。歌は、もしかしたら、遠い昔、人に愛情がはじめて芽生えたひとつのきっかけだったのかもしれない。そして、歌は唯一、見えない愛を、その音や声で具体化した初めての手段になったのかもしれない。

ふと、そんなことを思ったりしていた。やれやれ、思春期の子供じゃあるまいし、何を考えているのだろう。この私は・・・。

人はどうしてひとりでは、生きては行けないものだろうかと単純に思う。ひとりで生きてゆければ、きっと悩みも大きな不安も、互いを傷つけ合うこともないのに。互いの意見が衝突しあって、人が互いにすんなり認め合う事など現実の世界ではほとんどありえない。小さい頃は、正しいこと間違っていることは、いつも同じだったのに、どうして大人になると、こうも違ってくるのだろう?

答えはいつも見つからなくて、時間ばかりが過ぎてゆく。いつも、いつも、その繰り返し。朝が来て夜が来る。人生はいつも繰り返すばかりだ。正しいことも間違っていることも、すべてが繰り返されている。

だから私は、こう考えてみようと思うんだ。

”間違いだと思っていることを、一度、正しいものと考えてみようと。”

それは別に妥協ということじゃなく、あきらめると言うわけでもなく、ただ認めるということ。これはとても難しいことだ。でも、勇気があれば不可能じゃない。今の私は、きっと勇気をなくしただけなのだろう。そう思うと、”なんだ、そんなことか”と思った。とても簡単なことのように。

子供の頃、はじめてケンカをした仲良しの友達に、何日も口も聞かないで、悩みに悩んだ挙句の果てに”ごめん”って私から謝ったとき、”ぼくのほうこそごめん!”と声をあげて泣き出した友達のことを思い出した。

あの小さな勇気さえあれば、人はきっと分かり合える。それでダメになったっていい。その勇気は未来につながるはずだ。大人になると、いろんな思いに縛られて素直にはなれない。そうじゃなく素直になる。もっととても単純に。素直と勇気はきっと同じだ。

心の中に抱えたものを置き去りにしても、たぶんそんなに変わらないだろう。本当に大切なものは、両手で抱えるほど多くはない。何もかも抱えるから、そこから人は動けなくなる。大切なものは、きっと両手ですくった水のように、最後に残った一粒の水滴のようなものなんだ。だから無理に抱えなくいい。きっと、そうだと私は信じたい。

やがて誰もいない森の湖に、雲の隙間から日が差し込んでくる。天使が微笑むようなやさしさに、鳥が唄うように私は唄う。昨日までの私はただ、哀しみに泣いていた。だから、私は歌を唄いたい。

それはただの泣き声ではなく、鳥のように、ただ鳴くために。

最後まで読んで下さってありがとうございます。大切なあなたの時間を使って共有できたこのひとときを、心から感謝いたします。 青木詠一