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日記という私の証明。

そういえば日記を書くときって、いつもひとりなんだなぁ。わいわいがやがやと、あーでもないとか、こうでもないとか騒がしく、楽しそうに誰かと一緒に日記を書くなんてこと、まず、ないだろうなぁ。

だから日記は哀しいのか。どこか人見知りするような、誰かの背中から見ているような不安や寂しさを抱かせるんだろうな。

日記を夜、書いてしまうのは、どこか一人になりたがる心がここにあるからなんだろう。私はいつも心のままに、この日記(またはエッセイ)を書いている。時にはありのままに、時には言い出せないままに無意識の中の意思のままに、言葉を尽くして書いている。

だから時々、ちぐはぐで、なんのこっちゃ?と首を傾げたくなるような、わけのわからないものもあるけれど、日記は起きながらにして夢を見ているようなもの。だから、そんなふうになってしまうんだろう。

自分の想いが、すべての現実と同じとは言い切れない。そこに日記の危うさがある。例えば私にとって哀しい情景が、他人にとってはなんでもない、ありふれた風景に映ることもある。

それが嘘とは言えない。
それが現実とは言えない。

ただ、自分の心が映し出したものが
すべて、私の現実なんだ。

他人が決して私という存在にはなりえない。
日記が唯一、それを証明してくれる。
言葉なく、泣くように。

そうして私は、今日も日記を書くのだ。
私はここにいる?と
見えぬ誰かに問いかけながら。

最後まで読んで下さってありがとうございます。大切なあなたの時間を使って共有できたこのひとときを、心から感謝いたします。 青木詠一