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それでも後悔しながら生きてゆく

父の夢を見た。それは何の前触れもない、とても不思議な夢だった。私の父は、とうの昔に亡くなっている。それは随分と懐かしい光景だった。

夢の中で私達家族は、晩御飯を食べ終えた後かテレビの前でくつろいでいた。私はまだ高校生くらいだろうか?まるで透明人間のように、高校生の自分とその家族の光景をそばでぼんやりと眺めていた。

父が誰に頼むと言うことでもなく、こうつぶやいていた。

「誰か肩を叩いてくれ」

あの頃、肩こりのひどさに悩まされていた父だった。でも、ヘッドホンで音楽を聞いていた高校生の私には、父の声が聞こえていなかった。兄達は、テレビを見て笑っている。母は台所の片付けで忙しそうだった。

「誰か肩を叩いてくれ」

父の声は誰にも届かない。透明人間の私だけがそれを知っている。私はとても哀しい気持ちになった。もし夢を見ている私が透明人間じゃなかったら、高校生の私が泣いている今の私に気づいたかもしれない。

それは私がとっくの昔に記憶の奥底にしまい込んだいつかの光景だったのだろうか?もしそうなら、私は音楽を聞いているふりで、本当は知っていたのかもしれない。「肩を叩いてくれ」という父の言葉に。今更私はあの時の小さな心の痛みを、後悔でもしているのだろうか?

父は病気で死ぬまでに、あることを後悔していた。それは、私と彼女(今の奥さん)が婚約をした時のこと、彼女の実家で結納を交わす約束をしていて、私と母と父とで彼女の家に行くはずだった。しかし、その日の朝、父の体の具合が悪くなってしまい行く事が出来なかった。結局父は、その日から入院生活を送ることとなったのだが。

当時私は仕事で遠くに住んでいて、父の状態がよくない事もあり頻繁に実家に帰ることがあった。病院へ私が父に会いに行くと父は決まって病院の食堂に行き、私にコーヒーをおごってくれた。「もう僕は社会人なんだから自分でお金を出すよ」と言っても、いつも笑ってごまかされた。父にとって、私はいつまでたっても、小さな子供でしかなかった。

父と二人きりになっても、話はすぐに尽きてしまう。そんな時だった。「お前の大事な結納の日に行けなくて申し訳なかったなぁ」父はポツリとつぶやいた。まるで不意打ちを食らってしまったように、私は一瞬、言葉を失った。子供にとって、父親にまじめに謝られることほど、心がしゅんとするものはない。「でも、兄貴が代わりを勤めてくれたし、心配なんてなにもないよ」とやっと言ったけど窓の外を見つめる父が私にはとても小さく見えた。

父は、もうすぐ結婚する私の彼女に会いたがっていた。私が父に対して出来ることは、もう彼女に会わせることしかないとそのときの私は思っていた。当時、彼女も仕事をしていたし遠方だったので、なかなか会いに来ることが出来なかった。でも、彼女にそのことを話すと、彼女は喜んで私の願いを聞いてくれた。すぐに私達は、お互いの休みを調整して、父に会いに行ったのだった。

彼女は1番のお気に入りの服を着て、父の前で礼儀ただしくお辞儀をした。それが、その直前まで「お父さんに気に入ってもらえるかしら?」としつこいくらいに何度も不安そうに私に尋ねていた本人かと思うと私はククっと笑ってしまった。

父も、ちょっと緊張をした彼女を見て、とても幸せそうな笑顔を浮かべていた。そして彼女は私の父にこう言ってくれた。

「これからよろしくお願いします。お父さん」

彼女が何気なく言った”これから”というその言葉に、私は思わず胸がいっぱいになった。”これから”という言葉には、なんて遠い未来まで含まれた夢のある言葉なのだろうと。

しかし、そのときすでに、父に”これから”はなかった。

そのときだった。

私は自分の意思に関係なく、突然、手が動いていた。いきなり私は父の手を握り、そして彼女の手を取って父の手の上に重ねたのだ。どうして無意識にあんな行動をしてしまったのか?今でも不思議に思っている。でもあの時、ああしなくちゃいけないんだと私の心は一生懸命だったのだと思う。父の小さくて冷たい手が、私と彼女の手のぬくもりで暖められていった。

やがて父は言葉なく泣きはじめた。

顔をしわくちゃにさせながら、時折、うぅ、と小さく声を漏らしながら。あのときの父は、まるで小さな子供のようだった。父に、やがて訪れる死を思わせない為にも、私は泣く事が出来なかった。でも、父はもうすでに自分に近づく死の影に、気づいていたのだと思う。本当なら私は声をあげて泣きたかった。でも私にはもう、父の手を暖めることくらいしか出来なかった。

人は死ぬ前には、たぶん小さな子供に帰るのだと思う。まだ素直な心でいられたあの頃に、最後に人は帰りたいのだ。だから父はあんなふうに、子供のように泣いたのだと思う。それは哀しいことのようで、それでも幸せなことのようで。

あのとき父は、何を思って泣いたのだろう。
今はもう知る術はないけれど。

その数ヶ月後に父は亡くなった。私達二人の結婚式にはとうとう間に合わなかった。結納の件でさえ、あんなに後悔をしていた父のことだ。もしかしたら、死ぬ直前にも、結婚式に出られない事を後悔していたかもしれない。でも私はあの時、彼女に会わせる事が出来て本当によかったと心から思っている。

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「誰か肩を叩いてくれ」

夢の中で、音楽を聞いていた私は父の声が聞こえなかった。いや、本当は聞こえていたのかもしれない。あの頃にはもう戻れない悔しさと懐かしさが、いつまでもそこに残りつづける。

人は後悔しながら生きてゆく。
それでも、やがて訪れる子供の頃に
帰れるその日を待ちわびながらも。

最後まで読んで下さってありがとうございます。大切なあなたの時間を使って共有できたこのひとときを、心から感謝いたします。 青木詠一