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初老の彼女とピアノの音色。

これは当時、私がまだ電器屋の店員だった頃のこと。私の店の売場には、数台の電子ピアノと電子キーボードが展示されていた。そこではよく、子供や学生達が遊びがてら、鍵盤を叩いている。そこだけいろんな音楽にあふれていて、子供のでたらめな音階もあれば、流行りの歌を流暢に奏でる女の子もいたりする。

そんな中、ある童謡の音楽が、流れてくることがある。それはまるで時を告げる古時計のように、いつも決まった時刻に必ず・・・。
その度に、”あぁ、また来てるんだなぁ”と私は思うことになる。

もう、かれこれ半年くらいになるのだろうか?その初老の女性は、度の強そうなメガネの奥に、深いしわの中のやさしそうな瞳は、思い出を懐かしむように、いつもその鍵盤を見下ろしている。

そして、何時間もそこで、ピアノをひき続けているのだ。まるでそれを続けることが、彼女の宿命であるかのように。

「また、来てるわね、あのおばあさん。それにしてもあのピアノの音
レジを打つときにうるさいのよね、なんとかならないのかしら?」

そんなふうにレジのパートさんは、私にひそひそと耳打ちをする。たぶん、あの初老の彼女は耳が悪いのだろう。ピアノの音量は調節できるのだけど、彼女はいつも大きくしてしまうのだ。

「そうだね」と私も困った表情で言うけれど、あの初老の彼女の瞳を見てたら「もう、そろそろ遠慮していただけませんか?」なんてとても言えない。なんだか初老の彼女がとても大切にしているものを私が取り上げてしまうような気がして。

私は何度となく、その初老の彼女に接客のつもりで話しかけてみた。「いかがですか?こちらはコンパクトモデルで、部屋に置いてもスペースを取りませんよ」そんなふうに言うと、初老の彼女は決まって「うん、いいね、いいね」と言って、ちょっと遠慮がちな笑顔の中、ピアノをひき続ける。

「よろしかったら、まだ値引きいたしますよ」と私が接客スマイルをすると
「うん、欲しいね、欲しいね、でも、買えないわ・・・」とメガネの奥で小さく微笑んで何度か私にお辞儀をすると、必ずどこかに行ってしまう。結果的に、私は初老の彼女を追い返しただけになった形になる。その丸く小さな背中がとても切なて切なくて・・・彼女が帰ったその後も、”家でもちゃんと幸せなのかなァ”となぜか思ったりしていた。

・・・・・・・・

ある日のこと、私が休み明けに出勤してみると電子ピアノの音が聞こえなかった。不思議に思っていたら、その電源が抜かれてあった。

「あのおばあさんの下手くそなピアノがうるさくって、もう電源を切ったんですよ!」若いA君が、やれやれって言った感じでそう私に言った。

確かに少々営業に支障をきたしているし、それは仕方のないことだと思った。少しだけ心が痛んだけど、それが正しいのだと私は考えていた。そして何日間か、初老の彼女のピアノの音が鳴らない日が続いた。なんだか売場が急に静かになった気がして、私は少し落ち着かなかった。

ある日のこと、ピアノの売場の前にぼんやりと立っているあの初老の彼女の姿を私は見つけた。彼女はずっと、そのピアノの前に立ち尽くしていた。

何をしているんだろう?と私は思って、そっと近づいて見たら驚いたことに、彼女は鳴らない鍵盤をひとり、叩いていたのだった。

あまりのことに、私は一瞬、言葉を失った。

少しだけ哀しそうな瞳のままで、それでも彼女は何度も何度も鳴らない鍵盤を叩いていた。まるで彼女にだけ、その音のない哀しいメロディが聞こえているかのように。

彼女の指が当たる鍵盤の乾いた音が、私の心を握りつぶしているかのようだった。その心の痛みに、罪悪感という言葉の意味を、私ははじめて知ったような気がした。

胸がいっぱいになった。なんて残酷な事をしてしまったのだろうかと思った。私は彼女にそっと近づき、”うっかり忘れていた”みたいな感じで、そっと、ピアノの電源を入れた。

でも、もう遅かった。

私にビックリした初老の彼女は”いえ、もういいのですよ”と、声にならない唇の動きでそう言うと、まるで逃げるかのように帰っていってしまったのだった。電源が切られていた事実は、”ココに来ないで欲しい”と遠まわしに私が伝えていた揺るぎない現実。彼女も当然、わかっていたのだ。

そう思うと私はひとり、泣きたい気持ちになった。なんて取り返しのつかないことを、私はしてしまったのだろうかと。

当然のことだけど、私は彼女のその人生を知らない。あのピアノのメロディには、彼女の人生の中で何か大切な意味があるんじゃないかと私は考えていた。

そんなこと、と人は笑うかもしれない。”たかがピアノくらいで、何を大げさなことを言っているのか”と。

でも、私たちは時として何も知らないままで、誰かのことを傷つけてしまうことがある。たとえどんなにそれが迷惑であったり、滑稽に見えたりしても、その人と同じ目線で見れば、違う世界が広がっていて、はじめてその大切な意味がわかったりすることもある。まるでそれは多くの発明家が、最初は奇人扱いされるかように。

こんなふうに言葉を並べても、私の初老の彼女への思いはうまく表現できていない。それでも私は、失うものの寂しさを、あの彼女の瞳から、知ったような気がしていた。

・・・・・・・・・

それから数日後、また、いつもの時間にあのピアノの音は聞こえていた。あの初老の彼女のいつもの童謡のメロディだ。

実はピアノの売場を少しだけ移動させたのだ。レジからピアノを離して、レジ業務にピアノの音が妨げにならないようにした。A君は、そんな私にあきれていたけど、私はそれでいいと思った。

それは単なる自己満足かもしれない。でも、初老の彼女が、また楽しそうにピアノをひいてる姿に、私に何か間違いがあったにしても、誰かの幸せにつながっていると信じた。

それから、電子ピアノと電子キーボードの売場では、誰もが楽しくその音楽をひけるようになった。以前はレジが近くだったから、なんとなくお客さんが遠慮していたのだった。

そして、電子ピアノとキーボードの売上は、急激に伸びはじめるようになった。初老の彼女は、小さな子供達と楽しそうにそのピアノを教えたりしている。

本当に大切なものは、いつも見えない心の中にある。私は仕事をしながら、ふと、初老の彼女に感謝したい気持ちになった。それは売上とかではなくて、大きな意味での見えない何かについて・・・

ふと、気付けば
私は彼女のピアノに合わせて
心の中で口ずさんでいた。

最後まで読んで下さってありがとうございます。大切なあなたの時間を使って共有できたこのひとときを、心から感謝いたします。 青木詠一