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辛い過去は変えてしまえばいい。

過去の記憶は随分と曖昧なものだなぁと思った。

先日、ドライブしていたときに、道の駅を見つけて、確かここに美しい海が見える高台があったことを思い出し、立ち寄ったのだけど、そんなものはなかった。それが別の道の駅だったことが後になって分かり「過去の記憶って違うんだな」と思わず苦笑いしたのだった。

そんなとき、あまり関係はないのになぜか、こんな過去の辛い出来事を、ふと思い出したのだった。

昔、私は短期間だったけど、関連会社に出向していた頃があった。関連会社と言っても、仕事のやり方もシステムもまったく違っていて、慣れるまでにとても苦労したものだった。

そんなとき、ある人から私あてに、一通のメールが届いたのだった。その件名は「出向先の教育依頼と問題点、またその打ち合わせの日にちの件について」という堅苦しくて長いものだった。その差出人の名前を見て驚いてしまった。その人は昔、同じ店で働いていた、かつての同僚だった。彼とはある些細なことから大ケンカしてしまい、あれから長い年月が経っていたからだ。

どうやら彼も私とは違うエリアへ出向になったらしく、私に仕事のいくつかを教えて欲しいという内容だった。

あの頃、互いにまだ若かった。

仕事は常に忙しく、お客からのクレームに心を病み、私の怒りの矛先はいつも、私よりも仕事のできる彼に向けていたのだった。かつては仲が良かったのに、いつしか互いに小さな喧嘩が絶えなくなった。そんなある日、彼の何気ない一言に、私のそれまでの彼への怒りが爆発してしまった。簡単に言えば、切れてしまったのだった。

私は大声で暴言を吐いた。あまりのひどさに、まわりの他の社員たちが、私の両腕を抱えて、止めに入ったくらいだった。

あのとき、彼は私に何も言わずに、ただ、じっと、険しく私の目を見つめるだけだった。それからは互いに言葉を交わすこともなく、互いに転勤していって、それきりになっていた。

そんな彼が私にメールを送って来たのだった。

最初は随分と戸惑ったけれど、その時とてもうれしかったのを覚えている。他に頼れる人はいくらでもいるだろうに、それでも私を頼ってくれたことが不思議でならなかった。それに本当はあの日のことを、ずっと彼に謝りたいと私は思っていたからだ。

そして、その数日後に、彼は私に会いに来てくれた。ガタイの良さと、変な角刈りは相変わらずで、もうずっと口も聞いていなかったのに、彼は笑顔で私に握手を求めてくれた。私はそれがうれしくて、まだ、仲が良かった頃を思い出して、危うく泣きそうになったのだった。

そして数時間かけて、仕事内容を私が教えると、最後に彼は私にこう言ってくれた。「ごめんな、本当にありがとう」と。

それはごく当たり前な言葉に見えて、私はそう思えなかった。二人ともあの日のことは、結局何も触れなかったけど、その「ごめんな」に、すべてが込められているような気がした。

いや、それは私が言うべき言葉だったはずなのに…。そう思うと、私は胸が熱くなり、涙をこらえるのに精いっぱいだった。

私は思うのだけれども、人の記憶は、自分の目で見たものでしかない。誰かが見て感じたものを、現実として私たちは知ることが出来ない。そう思うと、私たちの見ているこの世界は、なんてちっぽけなものなんだろう。

私はずっと、彼は私を憎んでいると思っていた。けれども本当はそうじゃなかったのかもしれない。彼も私に何か言いたかったのかもしれない。

当然ながら、彼がどう思っていたかを私は知る術はない。すべては私が勝手に想像したことだ。そう思うと、過去のすべての出来事は、自分が勝手に作ったものに過ぎない。その作ったものが間違っていても、それを自分で正すことは多分、出来ない。その間違いを教えてくれるのは、きっと、彼のような大切な存在なのだろう。

今も私は、彼が私を許してくれたのかは分からない。でも、笑顔で握手が出来ただけでいい。それだけで、私は何も求める必要はないのだ。きっと。

人にはどうしても消してしまいたい過去がある。けれども過去は消すことはできない。そんな辛い過去なら、いっそのこと、変えてしまえばいいと私は思うのだ。

もともと人の記憶なんて曖昧だ。過去は変えられないというけれど、その過去が正しいとは限らない。ならば、そんな辛い過去は変えてしまえばいい。簡単だ。自分を許せばいい、ただ、受け入れればいい。そうすれば、別な見方で過去は変わってゆく。そして、そんな過去に縛られるよりも、今を生きてゆくことのほうが、過去を想うよりも正しい在り方だと、やがて気づくことが出来るのだと思う。

人は時として心に傷を負ってしまうことがある。その傷に刺さったものは、硬いガラスのカケラのようなものではなくて、きっと、冷たい心が欠けてしまった、氷のカケラのようなものだ。

やがて氷のカケラは必ず、冷たい冬から暖かな春が来て、ゆっくりと、とけてゆく。とけて消えてなくなってゆく。私はそう信じている。

その翌日だったか、彼からメールが届いた。

いつも堅苦しくて何かと長い件名なのに、彼の最後のメールはとても短い一言だった。

「ありがとう」

今も私はこのメールを大切に残している。

最後まで読んで下さってありがとうございます。大切なあなたの時間を使って共有できたこのひとときを、心から感謝いたします。 青木詠一